こんにちは。ユピテルジョージです。
今日は、文化の力についてお話したいと思います。
1960年代からの世界的な近代化
1920年代のシュルレアリスムなどの新しい文化
60年代末の世界に広がった大学闘争
70年代、80年代と高度経済成長期の新しい文化
90年代の多元化多様化したポップカルチャー
振り返ってみても
自分たちの祖母祖父が生きてた時代まで
つまり実際に耳で
「私の時代にはこういうのがあったんだよ」
という現実感として
とらえられる時代幅でも
文化の変遷と
そのダイナミクスは
ああ、すばらしい時代があったのだなー
と感じられる時代のエネルギーがあったと思います。
さて、当の自分たちが生きている
2000年代の文化、ときかれて
まだあんまりピンとくるものはないなー
というのが
100年幅の時代単位で
振り返ってみても強く感じるところです。
果たして
自分たちの孫に
私の時代はこういう時代だったんだよと
誇れるかどうか?
僕は正直
まだこの時代に
誇れるものはありません。
IT革命で訪れるとされた新しい時代も
経済の効率化と個人主義の台頭による
実力主義、能力主義という名の下で進んだ
深刻な経済格差を生み、
他者への想像力をはぐくむ土壌はだんだんとなくなり
想像力の欠如からお互いを傷つけあうことが多くなってきた
荒んだ社会状況。
IT革命の波で、
生活のゆとり、そしてそれによる心のゆとりも、
果たして本当に生まれたのかというと
携帯機器などの便利さで、表面的なコミュニケーションは
どんどんと自動化簡素化されいき、
もっと泥臭い他者への想像力をはぐくむ時間は
どんどんとすくなくなり
ひとりでいる時間も多くなり
実際には鬱病が深刻な社会問題になるほど
心のゆとりは、むしろなくなりつつある
現在。
そうした生活レベルで
なにかしっくりこない感覚を
多分誰しもが少なからずもっているだろう
2000年代後半の今。
生き生きしている!
楽しい!
命が燃える!
と純粋に思える文化が
今この時代にあるかというと、
??
と思わざるを得ない。
もちろん、
個々断片には
面白いもの
楽しいことというのは
確かに存在している。
しかしそれは生活にゆとりをもって
かなりの感度のアンテナを毎日のようにはっていなければ
なかなか見えてこないし、
社会に住む誰しもがそこに届くことができるような
普遍性な開かれた道筋が明確にあるかというとそうではない。
忙しい毎日のなかで
いったい誰が
人間が活き活きと生きる上で必要不可欠な
文化的な幸福に
いきつくための
扉を開いてくれるのだろうか?
これだけ情報機器が
発達している時代になっているにもかかわらず、
意外にもそれがうまく生かされていないのではないだろうか。
パソコンが爆発的に普及し始め、インターネット社会が到来し始めた
10年ほど前、そのわくわく感、新しい時代が訪れるという期待感を胸に
自分の外に向けて、さまざまな可能性に開かれていくと思われたはずの
高度情報化社会の波が、落ち着きを見せ始めた今、
意外にもその期待とは裏腹に
むしろ自分だけの興味や視野のなかに閉じていくような
あるいは自分の世界に安住し、むしろ停滞さえ生んでしまうような
ベクトルを生んでいるのではないだろうか。
だから、
2000年代後半の文化は?
ときかれても
それはこうです!といえるようなものが
なかなか見当たらない。
こうしたところからも
この時代の文化の「まとまり」がないのではないかということを
最近強く感じるのです。
そして、そのある種の「まとまり」のなさは、
どこに起因しているかというと
それはなんでも語り合え
損得を超えてお互いを補い合い
助けあるような物理的な「公共の場」がない
というところに大きな原因のひとつがあるのではないかと
感じています。
お互いの利害を超えて
さまざまな価値観をもつ人間が多様に集まり
語り合い
時に傷つけあうこともあるが、
しかしその分間違いなく
違いを超えた理解をしあえるような
「場」
生きていることはすばらしいことなんだ
と
素直に、でも
しっかりと
実感できる
「場」。
互いにお互いを育てていけるような
「場」。
そういうものが
2000年代後半の今
生き生きと日常を豊かに生きるために
非常に大切なものになるのではないかと
感じています。
現代社会が「場」として機能していない。
2000年代後半の
日本の文化をもりたてていくのは
こうした多様な人間が集まり
お互いを成長させていくような
共同の「場」を
協力して作り上げていくことではないか
と思います。