科学と魔術の間
先日、日本学術会議日本学術会議会長談話で
「ホメオパシー」の存在について「科学的」に「荒唐無稽」であり
医師はホメオパシーを実践すべきではないとする
談話が発表されました。
(今回の「ホメオパシー」に関する談話の全文は
日本学術会議のサイトに掲載されています。)
これは様々なニュースメディアで取り上げられ
僕自身もその談話について知る機会があったのですが
この「思い切った」日本学術会議の談話は、
これは「自然科学」とはなにか?
そして自然科学の装いをまとった
「疑似科学」あるいは「魔術」とはなにか?
という論点に対して
今後様々な議論をもたらしていくだろうと
思っています。
ホメオパシーとは、類似療法とも呼ばれ
ドイツ人医師のサミュエルハーネマン(1755~1843)によって
体系化された民間療法で
健康な人体に症状と同じように
生体反応を起こす物質を
「物質」としての分子が存在せず
人体に全く影響がないほどに希釈して
それを摂取することで
人体に備わる抵抗力を引き出して
症状を軽減するという
思想を持ったヨーロッパ発の民間療法。
僕自身は
2年前、アロマテラピーの勉強をしていたときに
ホメオパシーは
ヨーロッパでも200年以上にわたって実践されている
民間療法のひとつとして
知る機会があったのですが
このホメオパシーの歴史をたどっていくと
近代薬学の祖であり
また医者であり、また錬金術師でもあったパラケルスス(1493-1541)にも
その文化的ルーツがあることが知られています。
パラケルススの時代というのは
もちろん現在のような近代医学が確立する以前で
医学にも魔術的、錬金術的な色合いが強く
現代では考えられないナンセンスですが、
当時は、医者が患者のホロスコープを立てて
病状を診断するということさえ
行われていた時代だったのです。
(その当時の文化的痕跡としていまでも
「占星医学」という分野が西洋占星術の世界には存在します。)
ホメオパシーも
西洋占星術と同様に
近代的な自然観とは相いれない
「魂」や「スピリット」といった
ホリスティックなコスモロジーを
もった特殊な世界観を内包しています。
もともとこうした談話が発表される裏側には
ホメオパシーという文化が民間療法として
日本の医学界においても
無視できない文化的な影響を与え始めているという危機感や
また「自然科学」の正しい立場や見識を
いまいちど表明しておかなければならない
という意図もそこにはあり
また近年、実際にホメオパシーの実践の過程で
ホメオパス(ホメオパシーを処方する人)の
指示で受けるべき医学的治療をうけることが出来ず
死に至った事例なども存在するということも大きく影響しています。
私自身がこのニュースを取り上げる理由は
実はこの談話には
脱呪術化した近代社会の中で
「魔術」の文化の延長線上でその文脈にコミットしながら
それを実践する者が
「科学」と「魔術」との間のなかで
「科学とはなにか?」
「魔術とはなにか?」
について改めて自己言及的に
しっかりと考えるべきではないかという
大切な論点がそこにあると考えるから。
つまり
「科学」の外套を着た「魔術」の伝統を実践する
「ホメオパス」や「占星術師」を含む「実践家」が
これをどのようにとらえるのかということを
つきつけられる形になっているということ。
でも、ここで強調しておきたいことは
僕自身の考えでは
むしろ今回の日本学術会議の会長の談話に関しては
非常に健全で、
かつあるべき提示であるということ。
現代という枠組みの中で生きる上で
人類が長い歴史をかけて「脱呪術化」し
近代化の歴史の中で
手に入れることが出来た「科学的精神」や
「近代的な知性」を尊重する姿勢は
魔術の伝統的な文脈に属する
実践家においても大切にすべき点であるということ。
科学と魔術の歴史を
西洋占星術の現代史において振り返っても
70年代後半から80年代にかけて
日本においてもオカルトが全盛期だったころ
「科学」と「オカルト」の対立構造のなかで
両者の論陣はとてもアグレッシブな議論を展開していましたし
また、それが西洋占星術の現代の文脈に沿った
「理論化」や「近代化」を促した側面もあるわけです。
西洋占星術の心理学化や、あるいはその後の
ウィリアムリリーのクリスチャンアストロロジーの書誌的な研究などにも
代表される伝統的占星術の復権
なども「科学」と「魔術」の対立構造という図式自体が
現代における西洋占星術の文化的発展の
ひとつの源泉にもなっていたのです。
それがいまはどうかというと
そういった対立構造がほとんどなく、
こうした「科学的な良識」のある
問題提示や批判というものは
そうした時代に比べると
非常に希薄になっているわけです。
僕はこの点において2000年代以降の
スピリチャルブームなどにおいても
魔術的な文脈に対する明確なカウンターの不在というのは
西洋占星術の実践家としても
危惧するところなのです。
いうなれば現代という時代は
オカルトに走る青年を
叱ることのできる良識ある大人の不在の時代
ともいえるかもしれません。
「科学的精神」というものは
混沌とする不確実な世相の中に
身をひそめてしまったのでしょうか?
むしろ近代においては
魔術が魔術でありえた理由といのは
こうした科学との明確な対立構造があったことが
あげられるかもしれません。
でもこうした時代だからこそ、
西洋占星術や錬金術といった西洋魔術の文脈を
受け継ぐ「現代的魔術」を実践するということは
こうした「科学的」精神について
改めて自己の中にそうした2つの矛盾する文脈
である「科学」と「魔術」という論点を内包させていく
ということも大切だと思うことが多いのです。









Comments(5)
「科学」の発達は必ずしも人間を幸福にしていないのではないか、という疑問があるのだと思います。
ホメオパシーは知識不足でよくわかりませんが、
漢方医学に関しては一時は西洋医学に席巻されていたものの、保険診療が可能となりしっかりした土台を築きあげています。
むしろ「魔術」的なものは「未科学(現在はまだ科学的に証明されていない」として扱われ、いろいろな人たちの手で新しい展開を見せつつあると思います。
昔は対極的な意味合いが強かったにせよ
「魔術」の先に「科学」があり、
現在は「科学」の先に「未科学」としての「魔術」があるのではないかと思います。
二元化というよりは連続した変化する状態としての
位置づけに変りつつあるのかなと思ったりもしてます。
なので、イメージ的には西洋では二元論ですが、東洋では陰陽の太極図ということでそれに近いかなと思っているのですが、どうでしょうね。
だからこそ一層その動向には注意を払って見据えていく必要があるのかなと思っています。
hiromiさん、
いつも示唆深いコメントありがとうございます。
昨年、英国に渡って英国の占星術家と触れあうなかで
感じたことなのですが
実は「科学的精神」やあるいは「近代的理性」
というものに対する認識についても
日本とイギリスではかなり異なった文化的背景や
認識を持っていることを感じました。
私自身がもともと最初に西洋占星術にコミットし始めたのには
西洋占星術を学ぶことで西洋的な「科学的精神」や「近代的理性」といったものでは
通り過ぎてしまう「感性」や「感覚」を説明づけられる
なにかがあるのではないかと思い
そのヒントを西洋占星術の文化に求めようとしたという
動機がありました。
それは西洋占星術のシンボリズムを通じて
「科学」や「近代的理性」では掌握できない
「何か」を体系だって説明できるのではないかという
思いでもあったのですが
しかし最近はその試みは浅はかな考え方だったと
思うことが多いのです。
というのも最近日本に生きる日本人である自分が
そもそも西洋的な「科学的精神」のあり方や「近代的理性」について
どこまで正確に理解してきたのだろう?という問いに
よくぶつかるのです。
昨年、英国占星術協会のカンファレンスに参加し
英国の占星術家と触れあう過程の中で
逆に浮き彫りになってきたのは
自分自身が非常に「日本的な思考」
をしているということでした。
「科学すること」「世界を理性を通じて認識すること」
ということに関して、西洋におけるそのルーツをたどるとそれは
近代以前の「教会権力」や「宗教的世界」からの
離脱を表し、またそうしたものから世界を「脱呪術化」するために
「内発的な動機」を持って「迷信」を廃して、「革命」を起こし
客観的な事実をもとに世界を認識していくといった意味で
「科学的な精神」が求められたという文脈がありました。
これに対して日本の近代化はむしろ
諸外国の影響のもとに否応なく進められた近代化であって、
本当の意味で、「科学的な精神」をもとに近代化が進められたというよりかは
むしろ、いかにそうした西洋の価値観であった
「科学的精神」や「近代的思考」を
「受容していくのか」
といったことに重きが置かれていたということに
改めて気づかされたわけです。
日本人の思う「科学的精神」「近代的理性」という文脈の原型も
このあたりにあるのかなとも思いますし
またそれは西洋における「科学的精神」や「近代的理性」のあり方と
かなりギャップを感じる要素でもあるのです。
これは西洋占星術に対する向かい合い方にもよく表れていて
英国の占星術家は「宗教界」からもまた「学術界」からも
批判の矢面に立たされるされる対象だったからこそ、
そうした対立構造が明確で
そうしたものと戦っていく
あるいは自らのうちにそうした対立構造を
内方せざるを得ないという姿勢があるように感じたのです。
一方で、日本人は多神教であるからか、
西洋占星術に対してもその文化の伝播以降
非常に受容的で、
「星が運命を決める」ということに対しても寛容で
あったのだなということに気づかされるわけです。
そう考えると、彼ら西洋の人々にとって
「西洋占星術」などの「魔術的伝統」を支持するということは
彼ら自身の「科学的精神」「近代的理性」で歴史を切り開いてきた
彼ら自身の足元を根底からゆるがす可能性を秘めている
脅威にもなりうるわけですが、
しかし日本人にとってはむしろ「科学的精神」や「近代的理性」を
「輸入」し、また「受容してきた」という文脈においては
西洋圏よりも、比較的その影響から離れることも自由な形態を
とりうるというスタンスであれるのだと思うのです。
なぜなら、私たち日本人は
自分たちの歩んできた歴史という足元を根底からは揺るがすことなく、
あくまでそれらを「受容する前」の状態(アジア的・日本的な思想)
へと回帰すればいいのですから。
でも、その一方でそれでは本当の意味で
日本にいて日本という文化の影響下で
西洋の「科学的精神」や「近代的理性」について
本質的な理解を深めることができるかというと
これに対してはなかなか難しいなと感じています。
そういう意味でも、彼らは「魔術」を「脱呪術化」し
そこに「科学」を見出すことには成功しましたが
、
逆に彼ら西洋の文化圏が今後「科学」の先に「未科学」としての
「魔術」を見出すかというと、それはその観点で言うとなかなか
難しいのではないかと私は考えています。
西洋的な考え方からアジア的考え方にシフトすればいい日本人の立場
から想像するイメージ以上に
彼らにとってその作業は、自らのこれまでの歴史の根柢や
その存在意義を揺るがしてしまう脅威とつねに
向かいあっていかなければならないからです。
また、それと同時に日本の「近代化」の歴史においては
そもそも西洋がおこなったような形で「魔術」の中から内発的に
「科学的精神」や「近代的な知性」を見出したわけではなく、
あくまで近代においてそれらを外側から受容することで
近代化を進めていったわけです。
そうした意味でも、果たして日本人という立ち位置から
「魔術」を「脱呪術化」していく過程の中で
生まれた西洋的な「科学的精神」「近代的理性」を
どこまで正確に理解することが出来るのだろう?と思うと
それはかなり慎重に考えて検討していかなければならない
問題なのではないかと思っているのです。
日本人は常に自分達仕様に変えてゆくのが好きで好きなだけ際限なく変えてゆくし、それは今言う自由と創造の国民だとコンサルしていて感じたのです。1に従う歴史が永い西洋はTopDownが馴染みで、BottomUpな東洋とは在り様が逆ですが現状の虎ノ門系医学会はTopDownのピラミッドで感覚の話はあってはならないだけではないのかと大いに疑ってしまいます。移植についての慎重さのようなものは大切ですが、感覚の話から入るホメオパシーはあくまで本人の意思が作用する治療だからそれがどんなToolであれ細胞的機能改善できれば、現代医療として実績にカウントされてよいはず、日本人なら時間の問題だと、少なくとも業界全体が変わった工業界に転換をすすめた40代の私は感じています。
とってもとっても長いコメントレス恐縮です。
思いつきで書いただけだったのですが、ありがとうございます。m(_ _)m
日本と比べて西洋は昔は国境や支配者がしょっちゅう変っていた世界ですから、
自他の境界がしっかりしていないと生き残れなかったでしょう。
ただ、西洋では昔から東洋への憧れが強かったというのを聞いたことがあります。
西洋人もどこかで二極的なものに辟易している部分があるのかもしれません。
これから西洋人の感性がどのような方向に行くのか
知識も体験もない私にはわかりませんが、
世界中がドラスティックな変化を迎えている今
日本同様同じような価値観では無理がでてくるのかなとは思います。
日本人であっても、離れたところからだからこそ
見えてくる部分はあります。
日本人であるユピテルさんが
あえて西洋で生まれた占星術を使って
(ほとんどと思われる)日本人のクライアントさんたちに
解釈を加えていくという意味はどこにあるのでしょう。
それこそ八百万の神的感性がユピテルさんの中にも
あるのではないかとも思えるのですが。
もちろん西洋的な感性や成り立ちについての認識を
していくことは必要です。
ただ、それはそれとして
オリジナリティは必要となっていくはずです。
日本人としてのオリジナリティ、
さらにユピテルさん個人としてのオリジナリティ。
西洋生まれの西洋占星術ですが、
文化が違う人が
多文化的に見直していくという作業って
もしかしたら面白いかもしれませんよ。
なんて、また適当に言ってしまいました。
ご容赦くださいませ。
都倭さん、
ありがとうございます!
僕の視点では、日本における近代化というのは
明治政府の主導のもとでその時からトップダウン式の
形式で進んできたのかなと思います。
そうした形式はいまでも通常の感覚として
生きているのかなと。
逆に西洋における近代化は、
彼らの歴史の中で内発的に「理性」や「悟性」に基づく
文化を形成してきたという意味ではボトムアップ式
だったのかなと。
日本人らしさというのは日本の中にあっては
なかなかわからないこと、ということはとても強く感じます。
しかし、それと同時に彼等にとっての「魔術的な文脈」というのは
だからこそ彼ら独自の形態をとってきたというのも
それを認識したうえで理解できる部分もあります。
彼等にとって魔術とはいうなれば非カソリック的であり、また
非科学的なものの「思想の全て」であり、だからこそ「魔術」という文脈は
現代でも彼らの歴史的な文脈の中でも脈々と息づいているのだなぁと。
近年のホメオパシーの文化の日本における受容過程という言う意味でも
そうした意味である意味では非常に「日本的に」彼らの認識とは少し違う
独自の意識でこれらの文化を受容していっているのではないかと
ということも感じています。
これはいうなれば私たちの文化の一要素であった「浮世絵」が、
彼らの感覚を通じて受容されていく過程の中で
ジャポニズムや印象派の運動に結び付いていったような感覚で
彼ら独自の文脈で「海外の感性」が再評価されたような感じです。
これはホメオパシーに限らず、近年日本に紹介されてきた様々な
西洋魔術の伝統に根ざしている
フラワーレメディなど他の類似する要素においても
同様のことがいえるのかなと思うわけです。
hiromiさん、
そうなんですよ。日本人としてのオリジナリティ。
英国に渡って感じたリアリティというのは
日本という文化圏で日本人である自分が
占星術という文化を実践しているということです。
この視点は今後も大切にしていきたいポジションです。
英国の占星術家と同じ対象である占星術という文化を
今後も研究していくとはいえ
色々突き詰めて考えていくと、日本とはなにか
日本における近代化とはなにかとか、海外から
輸入された文化だからこそ、そういう日本独自の
文脈が見えてくるんですよね。
この辺は日本独自の占星術を含め、海外の文化が
近代化の中でどのように受容されていったかを
考えるということはとても大切なポイントになって
いくだろうなと感じています。
日本の民俗学研究とか、福沢諭吉なども
読みなおしてみようかと。
そのポジションがしっかりしてくると、逆に
日本独自の文脈で
非常に面白い占星術論が語られそうなんですよね。