Dec01

オルガスムスと、ヘミシンクにおけるF21

そうか。性的な絶頂感(オルガスムス)って、ヘミシンクで言うところのF21になるんだ。生と死の境界線。ここを超えることで、肉体を持ったまま死ぬことになり、そして再生する。昨年悟りを得てからずっと、オルガスムスに近い感覚(至福感)が永続的に続いていたのは、まさに、従来のF21の関所がなくなったからなんだな。
ゆえにF21以降の死後の世界を、肉体を持ったまま見ることができるようになったし、木星がセクシャリティや生と死を示す蠍座にあった時期に研究が進行し、そして射手座経過するとともに理論的にまとめられるようになってきたという流れも非常に納得がいく。

ある意味、F21を超えた世界は、オルガスムスがずっと続く至福の世界。なので、この世とは全然違う幸せを感じる世界になるわけだ。セックスを通じて、快楽を得て、そして新しい命が宿るというすべての行為は、このF21あたりにおいて構造上当然のごとく存在している世界なんだわ。なるほどね。興味深い。

クンダリーニヨガや、クンルンネイゴン、タントラの世界が、性のエネルギーを扱うのもそういうことか。

そういった真実を、C1やアストラル界のマーヤでとらえてしまうところから、ゆがみが生じ、性が、いやらしいもの、汚らわしいものになっていくわけだね。アストラル界における(F23-26の)信念体形のすり合わせをせずに、C1で関わってしまった時に、人は傷つく。そしてそうしたC1におけるネガティブな体験を避けるがために、まるっとセックスそのものを汚いもの、怖いもの、罪の意識としてとらえることで、忌諱する対象になっていったともいえる。つまり、性的な恐怖心や恐れは、意味では他の信念体形に触れることによって、日常の破壊、これまでの延長線上の人生が崩壊することへの恐れとつながっているわけだ。

仕事柄、恋愛についての相談事にたくさん乗ってきたが、背景にはこのF21の死の門に対する恐れが存在していることがしばしばあったことは、これでスッキリと説明がつく。

セックスセラピストのアダム徳永さんがいう、アダムタッチというのは、まさに焦点をC1(肉体)から、F10(エーテル体)へと移そうねということであって、それはあくまで入り口にしかすぎず、実際には、その先にあるF15やF21といったアストラル領域まで進んでいく。つまりアダムタッチを超えて、精神的、霊的なつながりの世界がそこからさらに開かれていく。肉体のセックスをさらに超えたところに、精神的なセックスが存在する。アダムさんが言おうとしてところは、そういうことなんだろう。

そしてそこまで進んでいくと、いよいよC1の規範や、社会的なルール(例えば結婚という制度や、ジェンダー的役割)を逸脱することになっていく。エロスが逸脱である(超越の表明)と定義したジョルジュバタイユのテーマにもつながってくるし、終身雇用制の終焉とそれに伴う従来の社会システムとしての結婚制度の崩壊や、LGBTのテーマ、ポリガミー論とも深くつながってくる。ある意味いま、社会自体が、F21の死の門を潜り抜けていっているところなんだな。

聖職者や、プラトン主義的なストア学者が禁欲的なのも、ここに由来していて、つまり肉体のセックスを超えた、F21以降の精神的なセックスの中にこそ、本質を見ているからであろう。どうしてもC1におけるセックスは、真の意味での信頼感をしっかりと時間をかけて形成していかない限り、そもそも存在しているF23-26の信念体形によって、ズレが生じてくる。それがなくなるのは、F27に移行した時のことなので、ゆえにF27の意識をキープしているいわゆる聖職者や哲学者は、C1のセックスを離れ、精神的なエロス(人間愛)に目覚めていく(あるいは目覚めようと努力する)のであろう。