Dec13

宗教的な愛

そもそもキリストの愛、主の愛、アガペーという概念がないと、そもそも論として、人と話していて、愛や、愛するというワードが一致しない。親子の愛や、恋愛ともまた違う愛。幼少期のころから当たり前のようにキリスト教の聖書の世界や、仏教経典などに親しんできたから、そもそも「神様の愛」や「宗教的な愛」というものが常に自分の愛の概念の根底にあるのだが、よく考えたら、世の中一般的にはそこまで神の愛や赦し、アガペーというものを、しっかりと基本的なことから知る機会は少ないのかもしれない。
神智学における第一イニシエーションは、この主の愛、アガペーを知ることから始まるが、キリストが示したような神の愛の存在を知っていたからこそ、ある意味今までどんな時でも神の愛とともに幸せに生きてこれたわけで、それを知る機会がなければそりゃ人生が恐れの中にいて当然だと思う。
よく考えてみれば親しくなる人は多くの場合、小さいころからキリスト教の影響が強かったり、お坊さんの家系だったりして、宗教的感情を当たり前に持っている。神様に守られているという感覚。ライトワーカーと呼ばれる人も、何かしら幼少期のころに宗教と深い関係がある人が多い。スリチャリストって、そもそものベースとなる幼少期の体験が違うのかもしれないし、それって案外一般的なものなのではないのかもしれないと、ふと冷静に思った。
そもそも、近代自己啓発のルーツとなった、ニューソート運動も、もともとアメリカのプロテスタント発のクリスチャンサイエンスから生まれたものだし、それも神の名を語っていなくともそもそもベースの哲学としては神の愛、アガペーありきの文化である。そういう意味で、そもそも論として、キリスト的なアガペーの愛を知らない人が、ニューソートの影響を受けて、表面的にキリスト教圏から輸入された「自己愛」「自分を愛することの大切さ」を知ったとしても、よく考えればそれはただのナルシシズムに陥っていくだけだし、そもそも主の愛を知らなければ、主の愛が入りようもないので、ナルシシズムに生きてももちろん救われるということもない。そればかりでなくエーリッヒフロムの「悪について」に語られるように、人はナルシシズムによって、悪に堕ちていく。灯台下暗しというか、あまりにも当たり前すぎて気づかなかったが、聖書を読むとか、仏教経典を読むとかで、宗教的な愛や慈愛を知るような実体験って、本当に大事なことだなと思う。
そもそも、こうしたアガペーの愛に根差さない日本における愛の概念は、基本は「和を以て貴しとなす」という考え方。争いごと無しに、皆が同じ意見を持つことが大事とされるし、異質な価値観を持つ人は異分子としていわゆる村八分にあう可能性が高い。そうしたピアプレッシャーの中で、全体主義的な傾向を持つ「犠牲の愛」が、日本的な「愛すること」の定義となってきた。これはキリスト教における「汝の敵を愛せよ」という意味での「犠牲の愛」では全くない。つまり、日本の考える「犠牲の愛」と、キリスト教的な「犠牲の愛」は全くの別物である。
やっかいなことは、この日本人的な、「和をもって貴しとなす」という「全体主義的な犠牲の愛」という要素に、ニューエイジ文化を通じて、キリスト教圏内の「自己愛」「自分を愛すること」「自己価値(セルフエスティーム)」という概念が入ってきたことで、おそらく欧米とはかなりズレた文脈で受容されてしまい、しばしば日本だと単純なナルシシズム的な教義になってしまっているということ。日本的な「和を以て貴しとなす」となる愛の概念では、自己愛、自分を愛することが単純な「わがままに振舞ってもいいし、嫌われてもいいじゃないか、どうせ私は愛されているんだから」という風に、相当歪んだ形で受け入れられてしまう。もちろんこの考え方に「主の愛」や、「汝の敵を愛せ」という宗教的な文脈、前提は存在しない。つまり単なるナルシシズムにしか過ぎない考え方に陥る。そして、ナルシシズムは悪に陥る。
「和を以て貴しとなす」という構造には、キリスト教的な主の愛、アガペーを介在させる必要はないし、また、そもそもバビロン捕囚の時代から迫害の歴史であるユタヤ民族の宗教において、「和を以て貴しとなす」は成り立ちえない。そもそも愛の定義が全然違うことを意識しないと、コミュニケーションにおいてとんでもないすれ違いになる可能性があるね。
つまり西洋から輸入したニューソート的な「自分を愛する」という概念の前提には、キリスト教における「主の愛」があるという前提を知っておくことはとても大事だということだね。また、西洋と日本が考える「犠牲の愛」が意味する内容も全く異なる。西洋の犠牲の愛とは、「汝の敵を愛せよ」「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさい(主があなたを愛してくださるように)」という宗教的な愛の形であり、日本の犠牲の愛は、村八分にならないために自己防衛的に身に着けるべき社会的な愛の形、社会規範である。そういうことを知らずに、文字通り受け取ってしまうと、とんでもないナルシスティックな誤読をしてしまうし、肝心の日本社会において、なおのこと不幸な結果になってしまうだろう。