Dec16

2つの犠牲の違い

神智学における第一イニシエーション、キリスト意識の芽生えって本当に大事だわ。確かに時代は次元が上がってイニシエートが、サナトクマラがサポートする第三イニシエーション以降の世界へと進む人が増えてきているけれど、世の中の大多数はまだまだ第一イニシエーションの前にいて、第一・第二イニシエーションを司るイエスキリストのサポートが必要だということをあらためて強く実感する。特に日本の場合は、犠牲というフレーズが、「村意識(集団意識やピアプレッシャー)への犠牲」を意味しており、アガペーにおける本来の意味での「神への犠牲」と違った意味(時に正反対の意味)になるので、ここは気を付けないといけないし、そもそもキリスト意識やキリストの愛そのものを、イエスの名のもとにしっかりと伝えていくことが大事なんだわ。
赦しとセットになる「罪悪感」というワードも、そもそも聖書の世界では神に対する罪悪感であって、日本の場合は村意識(集団意識やピアプレッシャー)に対する罪悪感(恥の概念)であって、同じ言葉なのに全く違う前提。前者の罪悪感は信仰が背景にあり、後者の罪悪感は社会規範が背景にある。つまり、全く別のものである。
同様に赦しという概念も、前者は神に赦しを乞うのに対して、後者は村意識(集団意識)つまり人に対して赦し(正確には「許し」)を請う。神の愛を知らなければ、神に赦しを乞うこともできないし、イエスキリストが十字架を背負って人類の原罪(アストラル界から物質界に受肉したこと)を贖ったという深い意味も理解できない。