Jan19

アクションアドベンチャーがかつてのRPGの記憶を脱構築していく

ゲームの歴史を追っていくと、非常に面白い。1984年生まれの僕にとって、ゲームとは、ファミコンのドラクエやFF(ファイナルファンタジー)などに代表されるRPG、そしてマリオの横スクロールアクションが王道で、それに付随してマリオカートや、テトリスやぷよぷよなどのパズル系が入ってくる。当時僕自身はあまりやっていなかったが、スト2に代表される格闘系もここに入ってくる。
非常に興味深いことは、ドット絵で描かなければならない、映像的な制限があったあの当時とは違って、現在のメインとなるゲームのジャンルが完全に様変わりしているということ。
特にPS3となり記録メディアがブルーレイになって、またGPUの性能が上がりCGの描写力が格段に上がってからは、メインの作品は、アクションアドベンチャー、もしくはアドベンチャーという新しい分野に移動する。アクションアドベンチャーは、RPGと異なり、勇者が敵を倒す中で経験値を上げてボスを倒すという一本筋のストーリー構造ではなく、「謎解き」や「行動の選択とシナリオの分岐」が基本。スーファミ時代でいうと、ゼルダの伝説における謎解きや、かまいたちの夜や弟切草といったサウンドノベルに近い。
つまり、RPGのようにレベルアップという概念は薄い。むしろ経験値という概念ではなく、謎を解く知性や発想の転換、正しい選択をするための情報収集を求められたり、e-sportsに見られるような、ボタンを押すタイミングなどのアクションゲームにおける操作の上達のほうが重要になる。そして、まるで映画のようにストーリーそのものを映像表現として楽しむものへと変容している。PS3やPS4において、ほとんどの大作は、このアクションアドベンチャーの形式をとっているのには驚く。
一つのゲーム攻略にかかる時間が仮に50時間だとしたら、いうなれば、これはドラマのワンシーズンくらいの長さのストーリー(脚本)に、自分の仮想の身体を没入させて、ひとつのシナリオを体験していくというエンタメだといえる。
つまり、自分が思っていたドラクエやFFのようなRPGに見られたゲームの概念は、完全に古い概念になっていた。かつてのRPGにおいては、コツコツと経験値を上げて、お金を稼いで、装備をそろえていけば、攻略できたが、アクションアドベンチャーにおいてはそうはいかない。情報が必要だし、同じことをコツコツ実直に取り組むというよりも、発想の転換や機転の良さが必要。まるで会社に入って一本道のストーリーを信じて、努力すれば必ずいつかはなんとかなると信じられた時代から、そうでもないばかりでなく、場合によってはそれはただのブラック企業なんじゃないのかしら?このやり方でダメなら自分を責めるのではなく、早いこと切り上げて、違うやり方を数多く試してみたほうがいいかも、ということが常識になっていった現代社会の変化のようだ。
こうしたゲーム性の変化は、例えるならば、同じ文章表現においても、短歌と、小説くらい、昔のゲームと今のゲームは、違う分野のものになっていたということを意味する。
これは結構、何気に重要なことで、僕の世代の感覚で「人生は、ドラクエやFFのように、レベルアップしていくことが大事だし、それが面白い」
と何気なく伝えていても、実はそもそもこの経験値を上げるなどのRPGのメタファ自体が成立しなくなっているということを意味する。現に、ファイナルファンタジーのゲームシステムそのものも、映像表現がきれいになるにしたがって、アクションアドベンチャー寄りの表現へと近づいていっている。
そして、PS1の記録メディアは、CD-ROMで、PS2までは記録メディアがDVDだったので、まだHD画質で収録できる映像が限られていたため、実写に近い形でのアクションアドベンチャーにも限界があったため、アニメによる表現に絞らざるを得ない側面もあった。逆に、音ゲーや、パズル系は、豊富な音源やアニメ的な効果を収録できるので、PS2までは豊富なコンテンツが提供されていた。収録メディアは、いうなれば人間の脳の記憶容量のようなものだから、その要領によって、得意なジャンルと不得意なジャンルが生まれるのだということも判明した。逆に、ある意味パズル系などは、基本的にスーファミ時代のドット絵時代までにやりつくしてしまっているため、IQやXi[sai]などの立体パズルを除いてはネタを出し尽くしてしまっていて、基本はリバイバルが中心となる。そして、PS3のハード自体が、任天堂のWiiなどの追撃で売れなくなって後は、特にこのパズルの分野については、スマホのアプリ、ソシャゲの分野に移動して、独自の経済的な発展を遂げていった。ある意味、スーファミ時代までに築かれてきたゲームの文脈は、スマホに移動して、なおかつゲーム離れをした大人世代は懐かしさから、昔のRPGやパズルゲームなどを、据え置きのハードでプレイすることはなくなっていったようだ。RPGから、アクションアドベンチャーにメインの表現分野が移動したことに面食らうのも、こうしたスーファミ時代までのドット絵ゲームと、据え置き型の映像表現としてのリアリティを追及するPS時代に登場したポリゴンゲームの二分化された背景があるからなのか。

まぁ、ある意味ドラクエやFF世代は、アクションアドベンチャーをプレイしていた世代からすると、RPG教の信者といえるかもしれないね。PSVRの「勇者のくせに生意気な」なんかは、ある意味そういうメタ認知的な視点があるのだと思う。また、そもそも、勇者でもない、ただのクズがクズな人生を歩んでいくというGTAの世界観なんかは、まさにタランティーノのパルプフィクションのようで、ゲーム世界において信じられてきた努力と経験値を上げ、一本道の成功を歩んでいくこそが全ての解決策という「RPG教」をメタ認知させる異化効果があるので、面白く感じるのだろうと思う。ある意味、アクションアドベンチャーが、RPGの文法を脱構築していくプロセスなんだともいえる。
逆に言うと、小説にしかできない表現があるように、短歌には短歌の良さがあるので、良質なRPGを求めるならば、やはり古典的なドラクエやFFが一番いいということだともいえる。現に、スマホアプリなどで当時のドット絵をある程度綺麗にしたうえで、世界観はそのまま売れ続けているのも、こうした背景があると思う。どちらがいいというよりも、そもそもそのハードがどのように人間の身体を拡張するのか?というアフォーダンスによって、表現分野の向き不向きが出てくるんだと思う。
そういう意味でPSVRに関して言うと、アストロボットはちょっと群を抜いた表現だった。あれは、マリオの横スクロールの3D版だと説明されることが多いが、明らかに人間の脳や現実認識方法の別の領域をガンガン刺激している。まだVRの世界は、未開発の領域だからこそ、今後こうした人間の身体を拡張していくような、非常に興味深い作品、場合によっては新しいジャンルが出てくるのだと思う。