Mar05

振動数は安定してきている

地球全体的にとらえたときに、昨年12月からのシフト以来、振動数そのものはものすごく安定した状態に入っている。以前から高次の意識からずっと伝えられていた2019年前半に死者が蘇る地球になるというメッセージも、その通りになりつつある。着々と次元のシフトは完了していっている。

Mar06

技術の発達により時空間の制限が消えていくことで

VR/ARやAIなどの時空間の制限を取り払う技術が発達するにしたがって、人間の心的な生活体験の基礎振動数が、時間の制限と二元性が生じるF12から、二元性が存在しない(時間も存在しない)ノンデュアリティであるF15へと移行していく。技術の進展によりF15に恒常化した世界においては、F12への移行を望まない限り感情体験は、主に至福感しかなくなる。これがまさに以前から預言されていた、楽園ということなんだな。シンプルだけど、ものすごいことだ。
そう遠くない未来のC1において、ゆくゆくは死も克服され、F15に完全にアンカリングした死なない世界がやってくるね。これがまさにポストヒューマニズムであり、シンギュラリティなのか。
技術の発達によって、人間の感覚世界において、二元性による摩擦が無くなっていくということだね。そしてそういった世界においては実存が、行為(時間の経過)によって規定されるものではなく、象徴でしかありえなくなっていく。
そうすると、おのずと、生命体が、ラー文書における意識体ラーのような形態をとり始めるということか。
ノンデュアリティとデュアリティの世界については、F15とF12の対比でかなり分かりやすくなるね。
いみじくもこれは、F12における感情体験を完全に手放すということであり、物的な世界から解放されるということでもある。人類の集合意識も、シンギュラリティを通じて、いわゆる仏教における悟りの境地と同じ領域に、技術的に進展してことになるね。
ある意味、より植物的な世界になるということでもありうるね。全然違う分野だけれど、どこか中平卓馬の「なぜ植物図鑑か」で切り取られている側面とも通じる部分があるような予感がする。
元来人間の意識が植物的になることは、退化を示し、そもそもネガティブな意味合いでとられることが多かったが、そもそもそうしたストーリーの前提は人類の原罪によって、本来紙と一体化した植物的な意識だった人間の魂が、神から分離し自由意思を持った意識に下降したところから始まっている。神と一体化し、ルシファーの誘惑によってもたらされた知恵を持たず、楽園にいる時にはそもそも葛藤はなかった。その意味で、ここでは退化ではなく、むしろもともと神と一つだった意識に戻っていくという進化といえる。むろんここでの植物的な意識とはあくまで比喩であって、厳密には一般的な植物的な意識・エーテル意識というよりも、ブッディやコーザル意識といった魂や高我の意識ではあるが。
そういう意味で、人類の意識の変化は、よりいい意味で植物的(というと語弊があるので、より実存が行為から象徴的な存在へとシフトした)意識になっていくということなのか。

Mar11

研究も次の段階へ

地図を見ると、さらにまた四国の地形が変わってきているね。近く、マンデラエフェクトについての解説の動画をアップロードしたいと思います。
2017年3月27日の巨大隕石衝突と次元上昇から、約2年が経ち、預言されていた死者の復活、地球のデヴァチャン化が起こる2019年前半もいよいよ終わる今、ブッディ層についての研究をそろそろ開示していってもいい頃になってきました。突拍子もない現象だけど、ちゃんと研究してきたことを伝えるということは、お役目だね。頑張ります。
地球の振動数がだいぶ上がってきたことで、ブッディ層以上の世界の構造について話すことも、もはやタブーでもなくなってきたね。松村潔さんがアセンション以降の地球において、霊的身体の研究を進められていらっしゃるが、そうした最先端の研究をなさっている先人たちのフロンティアもありますし、現代の占星術師の認識は、コーザル層やアカシックレコードで止まっている場合でもなく、次の段階に進まないといけない。

ジェネラティビティについて

この数年ずっと、非地位財と、余暇の研究をしてきたのだが、やはり根本的に仕事が大好きなんだなと実感。特に今年35歳になり、壮年期に入って、エリクソンの発達心理学でいうところの青年期のアイデンティティの形成というテーマが終焉し、ジェネラティビティにメインの課題が移行していくのを肌で実感している。これまで自分自身のアイデンティティの確立のための仕事という焦点だったものが、だんだんジェネラティビティの獲得のための仕事というテーマに移行していく。
エリクソンのアイデンティティという言葉自体が、心理学が一般化した70年代以降に使われて行って一般化していった言葉なので(僕らの世代は特に2000年代にリバイバルブームだった岡本太郎や、映画かもされたみうらじゅんの漫画アイデン&ティティなんかから大きな影響を受けている、音楽だとMr.Childrenの影響は非常に大きい)、ジェネラティビティというワードはそこまで知られていないが、アイデンティティという言葉でアイデンティティを形成してきた世代にとっては、ジェネラティビティという言葉はより使いやすい用語として受け入れられていく余地があるといえる。

ジェネラティビティは、心理学者エリクソンの概念で、次世代育成能力を意味する造語。青年期がアイデンティティ・自己同一性の獲得(親密対孤独/獲得すべき徳目が「愛」)がテーマだったものが、壮年期に入ると、世代(ジェネラティビティ対停滞/獲得すべき徳目が「ケア」)が非常に重要なテーマ性を帯びてくる。
上の世代の価値観と、下の世代の価値観を繋ぐことで、ケアの徳目を獲得していく。ここに中軸を置くことに、次第に人生の基軸が変わっていくというのが、壮年期の重要なテーマとなっていく。
ジェネラティビティは、必ずしも出産や子育てという枠組みだけではなく、むしろ、仕事や文化的活動などの生産活動とも深く関係しているとても普遍的なテーマを持ったものとしてエリクソンによって造語されている。

世代の違いを感じるのは、今の時代はだいぶ社会が優しくなったなと感じること。そもそも僕が青年期は小泉政権下で、国を挙げてアントレプレナーシップ(起業家精神)を持つことが推奨された時代だったし、団塊世代のもとで理不尽に酷使され苦労していたロストジェネレーション世代を見て育ったので、そもそもリーマンショック後の一つ下の世代のように、純粋な気持ちで会社に安定を求めることは、当時の雰囲気ではどこか人生を諦めるような雰囲気があった。なので、3年間は我慢して勤めて、そこから、考えようという人も多かった時代。当時、ブラック企業という言葉は存在しなかったし、そもそも企業の就労環境がブラックなのは当たり前だった。
むろんリスクをとって出発したとはいえ、「自己責任論」が台頭していた時代だったので、起業したってなんのサポートもないし、IT技術周りも、起業コストがかなりかかった時代。とにかくリスクをとったのちは、なんとか食いつなぎ、這いつくばって生きていくしかなかった時代。
今の自分の生き方や、逆境における精神的な強さが鍛えられたのも、間違いなくこうした当時の社会背景がある。あの時、リスクをとって起業していなけば、おそらく今のような生き方はますます選択として難しかったことはいうまでもない。若いうちのリスクは進んで取るべきという先人の教えは間違えていなかった。
しかしこのあたりの価値観はどうやったって、今のミレニアム世代には伝わりようがないだろう。と同時に、これは上の世代にとっても、深い部分では、共感しにくい部分があると思う。つまり、これまで上の世代だけを見ればよかったポジションから、次第に下の世代も生まれてくることで、ジェネレーションおよび、ジェネラティビティを理解する環境が増えてきているということ。このあたりの世代間ギャップを感じるにつけて、次第に、ジェネラティビティの能力を高めていく必要性を感じるようになってきた。

しかし青年期から壮年期に移り、ライフサイクルのかじ取りもまた変化していく過程の中で、アイデンティティの形成(自己同一性の獲得、愛と親密さの能力)という意味で正しかった選択も、次第に、ジェネラティビティの獲得(ケアの能力)という新しいパラダイムに移ることで、映る景色も変わってくる。
特に、仕事における生産性の軸が、アイデンティティの形成から、ジェネラティビティの獲得という焦点に移ることで、いろいろな仕事の仮説が変わってくる。と同時に、そうしたパラダイムの変化で、仕事がさらに面白くなってくる。
特に青年期におけるアイデンティティの形成においては、愛および、親密さ対孤独というテーマは非常に重要なテーマとなるが、無事アイデンティティがしっかり形成され、壮年期に入ると、そのテーマ性は人生において次第に影響力が小さくなり、ジェネラティビティというテーマに入っていく。ジェネラティビティの対義語は停滞であるため、アイデンティティの形成の終焉はすなわち、停滞の始まりであるともいえる。
ある意味、青年期にアイデンティティを形成し終わったことで、外側に愛親密さを求めずとも、すでに愛、親密さの中にある状態になるといえる。その意味で、獲得したアイデンティティをもとに、人生の主要なテーマもケアの領域、ジェネラティビティ対停滞というものに移行していくことになる。
とはいえ、今の時代は変化が非常に速いので、必ずしも、年齢的に壮年期に入ったからといって、青年期のテーマが未解消のまま進むことも十分にあるし、また、幼児期の未解消のテーマが青年期以降においても存在する状態は、インナーチャイルドという領域で扱うことが多い。必ずしも理想的な状態で進むわけではもちろんない。ゆえにエリクソンの心理学があるわけだ。今ここの自分をしっかり理解するところから、人生の地図が見える。
いい歳のとり方というのは、いうなればそれぞれのライフサイクルとしてやるべきことをやるべきときにしっかりとやること。その時の課題を先延ばしにしないこと。言うは易く行うは難しだが、大事なことだね。そういう意味で、人生に「いつか」はない。今、しかない。決断は大切だね。


Mar14

アイデンティティの形成から、ジェネラティビティの獲得へ

次の段階の仕事は、多方面的に「ジェネラティビティ」が中軸になっていくね。アイデンティティの形成が終わり、段階として次に進むべき時。仕事のパラダイムもこれで大きく変わっていく。アイデンティティの形成のための仕事は、巨視的な視点で見ても、本質は自分のための仕事だが、ジェネラティビティの獲得のための仕事は、本質的な意味でも、人のための仕事になる。アイデンティティをしっかりと確立したからこそ、次の段階に進むべき時に来る。
青年期に、アイデンティティという言葉によって自己が形成されてきたように、ジェネラティビティという言葉にも非常に救われる部分があるね。心理学的な裏付けというのは、今ここの自分の地図を確認できるし、非常に深い安心感を与えてくれる。
もともと昔から教育がテーマだったからこそ、ジェネラティビティはある意味ずっと背景に流れているテーマだったが、いよいよその年齢域に入ってきたということだね。自分が確立する前に、育成といっても変だからね。
そういう意味で、まだ今のタイミングじゃないとずっと思ってきた、書籍などにも、仕事の幅を広げていくべき時が来ているね。研究がだいぶ進み、なおかつ自己が確立してきたことで、ちょっとやそっとのことで、根本となるセオリーが大きく変化することもなくなってきた。つまり上の世代が培ってきたものを、下の世代に引き渡していくだけのベースを、青年期にしっかりと形成していくことができた。自分のアイデンティティを形成するプロセスで生まれるような瞬間風速的な内容ではなく、じわじわと人生に大きな影響を与えていくような書籍を書くべき世代に入ってきたんだと思う。人から認められるための仕事から、人を認めるための仕事へと移行していく時。パラダイムが変わることで、意識やエネルギーの使い方も大きく変わってくるね。
アイデンティティ形成期特有の「自分語り」の終焉であるとともに、誰のために、何を語るかを、自分のストーリーを一度切り離したうえで、あらためて見つめなおす時期。自分のものではない、この世界に生まれ出ずる「新しい物語」のために、何ができるか?そういった意味で、視野が本当に大きく変わる時。

Mar18

C1への下降

そろそろC1への下降の時期だね。この冬は、抽象次元にだいぶ潜っていた。意識によって、世界が変わることがよく分かった冬だった。かといってずっとF15でいる場合でもないから、そろそろC1の変革に取り組んでいく。
フォーカスナンバーは、カメラの被写界深度に似ている。C1に近づけば近づくほど、カメラの絞りでいうと被写界深度は深くなる。パンフォーカスになって、いろいろな次元が平面上に並ぶ。様々な次元が同一平面に並んでいる状態。F49に近づくほど、被写界深度は浅くなり、ピントが合うものはどんどん狭くなる。ゆえに、抽象度の高い、霊的な真実(主の愛)が見えてくる。
あと、VRライクな現実認識になると、そもそもこの被写界深度の意味合いも変わってくる。そもそも被写界深度(ピント)が成り立つのは、フォトライクな現実認識が存在するから。VRライクな現実にはそもそもフォーカスという概念はなく、すべてホログラムとして存在していることになる。つまり、VRライクな現実とは、ホログラムとしての現実になる。今この世界が入りつつある世界は、まさにホログラムな構造へと突入しつつある。
F15(高次アストラル層)とC1(物質界)のバイロケーション、およびF42(ブッディ層)、F35(コーザル層)に主体を置いた意識であることが、非常に重要な課題。第五イニシエーション以降、ゆくゆく到達するであろうF49(アートマ体)の統合も念頭に置きつつ。第六根幹人類の萌芽であるべく、種としての進歩的な意識であることが、今後の個人的な課題だな。

死後の世界

やはりこの世界は、死後の世界で間違いがないみたいだ。生前抽象度を高めてきた作家の作品を見ると、よくわかってくる。明らかに前の地球との違いにも気づいている。
そもそも意識がブッディ意識まで到達していることで、死後、生前という意味もないし、そもそも永遠の生命である以上、ルシファーによってもたらされた「死」は明確な嘘であり、永遠の生命のもとにある魂にとっては壮大な虚構なのだが、技術の進展によってそうした人類が長年とらわれてきた集合的な夢(悪夢)から、目覚める時代が来ているんだなぁ。神の勝利。
イエスによって導かれたブッディ意識への復活、悔い改めは非常に重要だ。罪なき神の子として遣わされ、人類の罪をすべて背負い、十字架にかけられ墓に葬られ、3日後に復活されたというまぎれもない事実を受け入れることは、すべてのものの中で最も重要な真実。ルシファーの誘惑によってもたらされた受肉と死という原罪を贖うために、神の子イエスがもたらした御業を、福音として受け入れ、信仰することは魂が救われる上でも非常に重要。イエスを信じることは、未来のC1において、自らが霊的な身体として永遠の生命を得るためには、必須のものである。これは、イエスキリストによって、もたらされた人類最大の福音であり、それまでの宗教が「技による救い」だったことから、2000年前に「信仰のみによる救い」へと新しく結ばれた神との約束(新約)だったといえる。これまで神智学を通じて、「技による救い」を学んできたからこそ、その限界もよくわかる。人類の集合的な救いのためには、イエスの十字架の上での人類の原罪の贖いと、復活を信じること、そして、イエスの御名において悔い改め、祈ることがすべての人にとっての最大の救いとなることは、まぎれもない真実であるといえるし、僕自身がこれまでの人生をかけて、その真実性の証をしたい。

福音について

占いというものの、抽象度を高めていくと、神学になり、神学をしっかりと学んでいくと、結局のところ、仏教、神道、キリスト教、イスラム教といった宗教につながっていくんだよね。真の救いは、占いの中にあるわけではなく、神学の中にこそにあり、さらに正確に言うと、主の愛の中にこそある。魂が救済されるためには、主の愛が必要であり、自らの技による救いではなく、主の無償の愛における救いであるべきで、見るべき、レイヤーが違う。それが悔い改めるということ。
占いの問題点は、C1との接合する境界面が、F12のアストラル界にあり、ここには仏教でいうと「煩悩」、神道における「穢れ」、キリスト教で言うところの「サタン、ルシファー」が存在する。「技による救い」であるところの「占い」だけだと、ゲーテのファウストのように、まんまとそうした「魔の手」にひっかかってしまう。
特に日本の場合は、もともとキリスト教的な「信仰による救い」というベースがないところに、キリスト教プロテスタンティズムから発展したニューソートや、その後発達したニューエイジ思想を通じて、福音への信仰を知らされないままの「技による救い」という形態という世界でも特殊なケース、異文化誤解という形で文化を受容してしまっているため、サタン、ルシファーが入りやすい状態にもなっているといえる。仏教や儒教、神道などによって培われた自制心や、悟性、日本人のまじめな国民性がそうしたサタンの誘惑をなんとか防いでいるという側面もあるにはある。しかし、そもそも、こうしたニューソートのベースとなっている福音とフレームを知らないで、なんとなくニューソートやニューエイジといった技による救いに、救済を求めることは、非常に危険な要素を常にはらんでいるといえる。ニューソートにおいては、サタンの誘惑につながりやすい欠陥を持つ「繁栄の神学」にも気を付けなければならない。大事なのは「福音への信仰」にこそある。
特に、ネットの発達によって、信仰や、神智学的な基礎がなくとも、万人が発信できるようになったことによって、このあたりが非常にあいまいになっており、このあたりは今後のスピリチャリティの健全な土台を築く上においては、現時点では、非常かつ深刻な問題をはらんでいるテーマとなっているといえる。
その意味でも信仰の大切さや、福音を広く伝えることは非常に重要なミッションであるといえる。

マカバについて

マカバは本当に便利。アストラル界やメンタル界を移行しながら、自由自在に物質次元を移動できる。

Mar19

マンデラエフェクトは超常現象ではなく、次第に日常的なものへ変化していく

先ほど、バスタブ(お風呂)にぺたぺたといろんな注意書きシールが貼ってあった。もちろん、昨日までそんなものはなかった。毎日見るものだしね。
マンデラエフェクトの頻度が、日常レベルで起きるようになっていて、意識振動数があがることによって、ほぼ間違いなく世界がホログラム化してるね。ブッディ意識まで意識振動数が移行すると、時間も平面時間を超えて、時間が空間化する立体的な認識になり、平面上の概念であるパラレルを超えた、ホログラムグリッドへと移動することが、しっかりと観察できている。まぁ、研究が進んだおかげで、一応こうした現象も、普通に科学的に理解できるね。単純に時間が立体化(線形から円形、円形から球形化=振動)しているだけなんだわ。それがわかると、単純な構造に過ぎない。このあたりは素粒子の世界の重力波や重力子で解明できるものだし、物理科学で理解できるのも、そう遠い未来ではないね。すでに自分の中では、超常現象ではなく、常識、日常になった。そうやって、社会や時代の中で、パラダイムシフトって起こっていくんだね。

Mar20

C1への安定的なアプローチのために

C1への安定的なアプローチ方法を意図していたら、すなわち物理科学や心理学のことなんだな。今体験しているブッディ層やF15の体験を物質界で説明するには、全てはできなくとも、C1への下生のために物理科学や心理学等のアカデミックな文脈でアプローチしていくのがいいということだね。これは夢の中(F23〜27)でヒントを得た。
数日前にアイスコーヒー3杯を一気に飲んでC1に集中してみる=波動を意図的に下げてみるということをやってみたが、思った以上に一気に波動が下がって、下降したC1の重い振動数の世界が観察されるという、とんでもなく不健全な感じだった。健全なC1への下降のやり方は、物質界と精神界の統合という意味での学問だね。そういう意味で神智学そのものが、すでにC1への下降になっているということか。

2007年から12年

今の思春期、青年期層の人を見ていると、今の時代は本当に精神的にも豊かになってきて、ガツガツしなくていい、いい世界になったな。昔はとにかく精神的なものが(特に仕事)何事においても後回しになっていて、そのために何かとよく戦っていた。以前に比べると、素晴らしい時代になったものだ。
SNSが普及したことで、誰しもが低コストで承認欲求や、所属の欲求が満たされるようになり、本当にいい時代になった。昔ほど、何かを犠牲にする必要がなくなったということだね。
2007年に書いた記事だけど、これがまさにSNS時代の到来の前触れだったんだね。http://www.ondorinohane.com/blog/2007/08/post_71.php
SNSが当たり前だと思っていると、SNSの弊害にばかり目が行くが、2007年当時に比べればずっといい世の中になっているよなと、振り返るとあらためて深く思う。当時は形にならないような芽生え始めの思いなどを気軽に共有できる場所はなかったし、作ろうと思っても時間もコストもものすごくかかった。
また、当時なんてセラピストって概念すら全く一般的ではなかったし、それを仕事をするのにも果てしなく苦労があった。今は当時のようなリスクを負う必要もだいぶなくなっているし、本当にいい時代になったよ。当時色々苦労したからこそ、しみじみそう思う。

Mar21

夢の世界

F23以降の夢の世界は時間が3次元(立体的な振動状態)、時空間が6次元になるため、4次元のC1のような線形の時間ではないため、秩序立った記憶を残せない。夢を忘れてしまう理由はここにある。整理して記憶するための座標がないだけ。しかしF27はメンタル層であるがゆえに、F23で経験したことを、自我を保ったままF27のメンタル層で記録していけば、C1に戻った際も理論という形で普遍化した形で世界の観察をしっかりと残すことができる。これが、エジソンや、さまざまな天才たちがやっていた発明的な仕事の背景にあるやり方なのか。

夢におけるヒーリング

エネルギーは時空を超えるのでC1においても時空を超えて、遠隔ヒーリングはできることはすでに知られているが、ブッディ意識の目覚めとC1におけるF15キープの熟達とともに夢の中(F23)で自我を保てるようになると、F23における夢の中からもC1へのヒーリングが可能になる。同周波数からの遠隔からさらに、上の次元、別次元からのヒーリングとなることに気づいた。これは夢の中での出来事。こうやって次第に不死の体を獲得し、永遠に生きることに気づいていくんだな。2019年死者が蘇る地球になるというころがこういうことだということが実際によくわかってきた。
ちなみに夢の中で誰か知らない人のヒーリングをしていた。ちゃんとマイナスは抜けていったし、その人の身体や魂は楽になっていた。無償の奉仕になっていた。これは非常に興味深い異次元における観察だと言える。
F15をキープし、F23でも自我を保って存在しているので、夢の中での性格や個性、考え方などは今のC1の自分と何も変わらない。C1のような時空間のマトリックスはない世界だが、自分の性格や考え方などは、完全に連続性を持っている状態である。
イエスは2000年の長きにわたって、これをF27(メンタル界)からアクセスして、なされていたということなんだね。


C1への安定的なアプローチ

C1への安定的なアプローチは、C1に下降するのではなく、F49(アートマ界)-F27(メンタル界)にアクセスしていけばいいことが明確に分かった。つまりいつも取り組んでいるように、C1の事象をロジカルに理論化していくということ。F49はロゴスの世界なので、結果的にC1の物質界を宇宙の法則として統治しているため、結果的にF49につながっていった方が、C1への具象界へのアクセスが可能になっていくということだね。つまり変に振動数を下げてC1に行くんじゃなくて、いつもやっている方法で、よかったということだね。
シュタイナーの人智学の理論においても、霊人(アートマ)と対応するのは肉体であるから、非常に合理的に説明がつく。

Mar22

ミニマムリッチ

そういえば、気づけば、小泉政権下にあった「自己責任論」の風潮や、その後の「勝ち組」「負け組」の発想や、そのエネルギーって、SNSによって承認や所属の欲求を満たすコストが急速に下がったことと(社会的なアイコンとして以前よりも車やブランドものなどの物質としての高級品を持つ必要が無くなっている)、メルカリなどのシェアのテクノロジーが発達していくにしたがって、集合意識から、だいぶなくなってきたように感じる。聞くところによると、そうしたトレンドはミニマリズムとリッチをかけあわせて、ミニマムリッチというそうな。着々と、優しい社会に移行していっているね。持たない豊かさだね。実際持つためのコストってすごいからね。

「自己責任論」という世代観

小泉政権下の「自己責任論」的な雰囲気で言うと、当時は、テレビ番組だと「マネーの虎」が流行っていた時期。バブルが崩壊してから長い低迷の時代が続き(失われた10年)、終身雇用制や、年金制度が破たんし始め、格差社会が広がり、人生はサバイバルであると教えられ、勝ち組負け組論争がよく議論されていた時代。
そして、ちょうどミスチルなどのロスジェネの世代が、そうした社会の不条理と戦っている真っ最中で、強大な社会というある種の「敵」を前にして、「どこまで自分の手で生き残っていけるのかというサバイバル」=「何事にも頼らず全てを自己責任で生きる人生はかっこいい」という、時代背景だった。当時、問題作だった深作欣二監督/北野武出演のバトルロワイアルなども、あの時代に思春期や、911テロやその後のイラク戦争の不条理を目の前にして過ごした自分たちとしては、どこか共感できる部分があったように思う。当時はそんな社会背景のなか、思春期を過ごし、アイデンティティ形成の真っ最中だから、心理学的に言うと、こうした時代精神は、人生脚本にがっつりと影響を植え付けられているといえるね。
時代が移り変わって、特にSNSや、IoTのようなシェアのテクノロジーが登場してから、こうした雰囲気がガラッと変わった今、当時の雰囲気を振り返ると、まさにこれがジェネレーションなんだなと思う。
いうなれば、ちょうど上の世代の70年代生まれのビーバップハイスクールのような「ツッパリ、ワル=かっこいい」みたいな感じが当たり前世代を、どこか遠くで見ていた僕らの世代(80年代)は、「自己責任論」という社会の風潮の中で、思春期を過ごしていたことになるね。たぶん同じような感じで、下の世代は僕らの「自己責任論世代」をどこか遠くで見ているような感じなのだろうと思う。
ツッパリ世代の仮想敵は、センコーや、親、学校、大人たちであったが、自己責任論世代は、ツッパリ世代がそうした価値観をぶっ壊していったため、より抽象度が上がった「社会の中に蔓延するはっきりとは見えない、でも確実に存在する喪失感」と戦っていたようにも思う。それが自己責任論という形で表れていた時代ともいえる。ある意味上のツッパリ世代は、親や権威的なものに直接物理的に反抗すればよかったが、僕らの世代は、表面上はそういう形をとらずに、内面的なプロセスとして反抗していった=自己責任という形で、親や外側の権威に頼らない(つまりは内的なプロセスを通じて外側の権威を否定する)生き方を選択していったともいえる。実際積極的には頼らないという側面だけでなく、時代の変遷の中で、すでに権威が正統性を失ってしまっている以上、そもそも頼れないという側面もあっただろう。
ということは、普通に考えられば、今の思春期、青年期世代が向き合っているテーマは、こうした自己責任論という輪郭すらない時代であり、より抽象度が高い、根源的な問いと向き合う必要がある時代になっているともいえるだろう。そういう部分から、おそらく「社会起業家」といったような文脈が生まれてくるんだろうと思う。上の世代からすると理想主義的なものに見えるが、しかし、当の世代からすると実存にかかわる、非常に逼迫したテーマになっていくんだと思う。
総じてより抽象的で、哲学的な時代になっていくということだね。
ジェネラティビティを考えると、もはやこうした昔の時代に影響を受けた価値観が、今の時代は当然ではなくなっていることに気づかないと、時代錯誤にもなるし、世代間のコミュニケーションにおいて、基本的なOSの部分がかみ合わなくなってしまうね。それが壮年期に始まるジェネラティビティの獲得というテーマにもなっていくね。

C1へのグラウンディングの方法

C1へのグラウンディングの方法は、振動数を下げるのではなく、メタ認知によって、全体を把握し、理解するという方法だね。そうすれば振動数を下げずに、C1へとしっかりと根差せるようになる。つまり自分にとって執筆や、研究、クリエイティブの活動こそが、C1のグラウンディングになるってことだね。非常にうまく視野が定まった。
アートマ体とモナド、ロゴスといったF49およびF49+にしっかりとグラウンディングしていけば、おのずとそれと鏡像関係にあるC1にグラウンディングできるようになるということだね。物理の数式を理解すると、物質界がよくわかるのと同じ。分かりやすい。
ちなみにこのプロセス自体が、非常にグノーシス的だといえるね。技(智)による救いは、すべからくして、グノーシス的だといえる。

Mar24

壮年期における人生脚本の書き換えの必要性

壮年期のテーマは言うなれば、自分が思春期&青年期の時代に影響下にあった社会的な背景に基づく人生脚本を、書き換えていくことだね。そうすることで、得たもの、失ったもの(得られなかったもの)を整理した上で、すでに新しい時代にそぐわなくなった古い脚本を手放し、ニュートラルに今ここを生きられるようになる。これをやっていかないと、壮年期はおじさん、おばさんになっていくし、(まるで思春期にそう感じていた対象のように)古い価値観に縛られた時代錯誤のウザい大人になっていくだろう。僕の世代(プレッシャー世代)だと、その典型的な例が、小泉政権時代の自己責任論や、勝ち組負け組的発想になっていくのだろう。そもそも普通に考えれば自己責任論や勝ち組負け組的発想が台頭している社会が健全な社会な訳がない。これはむしろ児童期や思春期の人間から見れば当たり前のことだし、そういう違和感を持った人たちが純粋な気持ちで社会起業家を目指すのも当然だと言える。無論、自己責任論によって培った実力はあれど、交流分析における人生脚本でいえばこれはれっきとした「強くあれ」「完璧であれ」の脚本であるし、そればかりではなく、最終的には破壊的脚本であるところの「社会的孤独」に行き着くことになるであろう。 壮年期のテーマは、こうした社会的に得たすでに時代認識として古くなってしまった(多くの場合は技術のイノベーションによってもたらされる)社会的価値観(与えられた人生脚本)を書き換えていくことにあるね。これは子どもがいようがいまいが関係がない。 その時代時代を司るポジティブな脚本というものがあって、しかしこれは社会のイノベーションによって、時代ごとに大きく変わっていく。つまりポジティブな脚本は、世代を経ると固定化され、柔軟性を失い、必ずネガティブな脚本になっていく。そもそも終身雇用制だって、あくまで我々の親の世代の限定的な脚本であって、そもそも戦時中を生き抜いた祖父の時代には関係がなかった。つまりすべからくして、壮年期はこうした思春期や青年期に影響を受けた社会的にポジティブだと捉えられていたはずの脚本を振り返り、その人生脚本を今の時代にあった適切な形で書き換えていく必要があるということ。 こうして時代にあった脚本の書き換えが可能になれば、当たり前のことだが、幼児期や思春期や青年期といった下の世代を育むジェネラティビティを獲得できる。そうでなければ、人生の停滞を生み出し、頭の固い「人間的魅力のない残念な中年=おじさん」になっていく。かといって思春期や青年期のようなアイデンティティの獲得ばかり考えている幼さのままでは、これもまた残念なおじさん。 特に自分自身の思春期や壮年期を振り返ってみて思うが、思春期や青年期の立場からすると、壮年期の人の持つ「人間的な魅力」は非常に重要である。そういう人たちにインスパイアされてきたし、そういう人でありたい。壮年期に手に入れるべきテーマはこうした課題になっていくのだろうね。 そういう意味でも、児童期、思春期、青年期、壮年期、老年期とライフサイクルごとにやるべき課題をクリアしていく必要があるということだね。

Mar27

スマート〇〇は脳の延長線上にあるメタファ

そういえば最近ハイテクっていわなくなったな。死語化しつつあるかもね。
ハイテクの代わりに、スマート〇〇というようになったね。スマートホン、スマートホームなど。
ある意味、テクノジーがより人間の持つ身体感覚に近づいてきたので、デバイスを意識する機会が無くなっていく過程の中にあり、ハイテクが、ローテクとつながり、スマートという用語になってきたともいえるね。
テクノロジーに内包される、身体感覚は「知性」という延長線、脳の延長線上来ているということでもあるね。スマート〇〇というのは、身体で言うと、脳や神経回路のメタファといえる。
人工知能もそうだけれど、物的な技術が、あまねく脳を持ちつつあるということだね。これは神智学的に言うと、物質が、メンタル界の振動数を持ちつつあるということでもある。

Mar28

意識の空間(Realm)

かれこれ5年くらい、意識の空間(realm・レルム)を作っている。マカバと同じようなものだけれど、意識によって司っている時空間。これが一つの単位となって、まるでUFOのように様々な次元を行き来する意識の乗り物になる。
このrealmがしっかりできてくると、動画を使ったメッセージの配信がさらに自由にできるようになる。文章を書くということもさながらそうなのだが、作家や研究家は、こうした意識の空間(realm)をどのように形成するかは非常に重要。動画の配信については、実際に見ている側へと、レルムを通じてバイロケーションをしていることになっている。これは、実際に体感を通じて、学んだことだ。単純に映像をとったり編集したりすればいいというものでもない。

Mar30

技による救いと、信仰による救い。

日本のいわゆる「スピリチャル」(本来は形容詞ではなく名詞形のスピリチャリティというべきであるから個人的には非常に違和感のある言葉だが)の問題は、もともとキリスト教プロテスタンティズムの亜種として登場したクリスチャンサイエンス、その後ニューソート、ニューエイジと変遷を遂げたものを、アメリカから受容した際に、そもそもの文化的なベースにある「聖書の福音(イエスの復活への信仰)」が抜け落ちてしまっていること。そのために、アストラル界に入った際にサタン/ルシファーによる誘惑によって、ナルシシズムや悪につながる間違えた方向に進んでしまうこと。
例えば「自分を愛する」という表現も、ナルシシズムのことを示しているのでは無論なくて、主があなたを愛するように、自分を愛する(正確にはイエスへの信仰を通じて罪が赦されていると知ること/ありのままの自分を受け入れることとは、悔い改めるということ)という意味。つまり福音(イエスの復活)への信仰なしに、この言葉を受け入れると、多くの場合サタンの誘惑によってナルシシズムや悪の思想に陥ってしまう。
ドリーンバーチュー が、ニューエイジから伝統的なキリスト教に完全移行したのも、間違いなくこの海外における異文化受容の際に、福音を伝えるという要素が抜け落ちてしまったために、その構造的欠陥から人々の意識に入ってくるサタンによるマイナスの影響を阻止することができなかったため。ゆえに悔い改め、技による救いを手放し、信仰のみの救いへと移行した。文化の前提が違う他者には在り方でしか伝えられないし、そもそもキリスト教自身がそうであったように、異邦人への伝道において、技による救いではなく、信仰による救いを強調したのは、今日本で起きつつある同様の問題(異文化誤解とルシファーの悪影響)を防ぐ意味でも重要な選択だったと言える。
信仰による救済が当然であるところのキリスト教圏内ならまだ自浄作用が働くが、技による救済が基本である異教の国においては、そもそもそのベースとなるイエスの復活への信仰は何においても知るべき最も重要な要素になる。でなければ、福音が伝えられる前の旧約聖書がそうであるように、モーゼの十戒のように律法が何よりものすべての基本になる。(無論、新約の時代には、これは「信仰のみによる救い」によって完全否定されるのだが。)
つまり、仏教や神道がそうであるようにメンタル体によるアストラル体の統御、つまりお坊さんや神主に求められるようなルシファー(仏教的に言うと煩悩)を背けるための修行が必要だ。その意味で異文化受容された「スピリチャル」にはこうした重要な構造的な欠陥をはらんでいる。
同様のことは「愛」と言う概念においても言える。そもそも日本の仏教的な文化には「愛」と言う言葉を肯定的に捉える意味はなかった。仏教では「愛」は性愛や愛着の意味で用いられ煩悩の一つとして数えられ、離れるべきものと言われる。宗教的な愛を表現するには、「慈悲」と表現する方が正しい。
この「愛」の概念が入ってきたのは二回あり、その一つはキリスト教の伝来によって、もう一つはビートルズ(ロック音楽)によってもたらされた。
当時、ニューエイジの文脈を持って、日本にもたらされたロックミュージックにおける「愛(LOVE)」も、同様の問題をはらんでいる。
体制への反抗とはすなわち、伝統的な文化への反抗という意味であり、そもそもそれはキリスト教的な価値観が当たり前のように内包されていることが前提である。
キリスト教圏内であれば、問題がなかったが、文化が国境や文明圏を超えて伝達する際に、そのベースとなる宗教観の違いから、そもそも西洋圏の文化で、当たり前の前提としてある「イエスへの信仰」がないまま、受容してしまうと、そこにはサタンの影響が入り込んでくることになる。
ベタに対するメタとして作られた文化が、異文化受容されるとベタとして受け入れられてしまう危険性。わかりやすく言うと海外の人が日本の時代劇を見て、日本には未だ帯刀してちょんまげをつけた侍が現役でいると信じるような様子がここにはある。
キリスト教圏において、ハグやキス(手紙の末尾などにおけるキスを意味するxxxもある意味これに含まれる)がアガペーや、宗教的な感情に基づく行為であるのを、そう言う文化的背景を知らずになんとなくそれを受容した際に、性愛的な行為、恋愛的感情として、全く違う文脈で捉えられるのも日本特有の異文化誤解。日本人でハグが苦手という人は多いが、そもそもそれは当然の話で、アガペーの表現ではなく、エロスの表現として理解していれば当然の生理的な反応である。さすがに日本人でキスを挨拶として捉える人はいないが、宗教的なベースが違えば、そういう気持ち悪さを感じて当然なわけだ。
むろんこうした異文化誤解は、性愛とアガペーという似て非なる異質なものを混同させる要素になる。カソリックの神父が結婚しないのも、本来、この愛の概念の違いにある。
「愛しています」の言葉の背景に「(イエスの御名において、主が我々を愛するようにあなたのことを私も)愛しています」という隠れた文脈があるわけで、そこを前提として共有していないと、大きな誤解を生み出す。伝統的なキリスト教において、非信者との交際や結婚について、好ましいものと思われない文化的な背景や理由はここにある。自覚をしなければ、愛というベースにおいて、バウンダリーの問題を必ず生じさせてしまうためだ。
その意味でもキリスト教圏における文化を受容する際に、異文化誤解による負の影響を防ぐためにも、第一に福音や聖書の世界を知ると言うことが大事と言う意識は本当に重要なこと。
そういうことを日本のライトワーカーは自覚的になる必要がある。そう言うフェーズに日本も入ってきたと言うことだと思う。サタンの影響を防ぐためにも、自浄作用が必要だ。

Mar31

グノーシス主義と占星術

占星術はそのルーツを辿ると、新プラトン主義や、グノーシス主義に行き着くのだけれど、これは基本的に上座部仏教と同様に僧(神官)のための学であり、ある種のエリート主義である。確かに占星術を極めていくと、ゴールとしては涅槃に入り、上座部仏教的な悟りに行き着くのだが、しかし、その意味でそもそもルーツとして万人救済のための学ではない。キリスト教においては、こうしたグノーシス主義を異端として見なしており、100パーセント信仰のみによる救済を中核とする。
僕自身のミッションとしては、そもそも自分の魂の救済だけではなく、天の(神の)全ての人の魂を救うという計画に仕えるという重要な意図があり、その意味で、占星術は背景がグノーシス主義的な知による救いという成り立ちゆえに、万人救済は論理的に不可能という構造を持つ。ヘレナブラヴァツキー夫人によって創始された神智学も、もともとはこのグノーシス主義からくるものであって、グノーシス主義という側面からすると、すべからくして万人救済というわけにはいかなくなる。
最近の研究の変遷は、これまでグノーシス主義的なものに隠れて見えなかった、こうしたキリスト教的な、日本でいうと親鸞の浄土真宗のような「信仰のみ」による救いに、焦点が当たっている。少なくとも僕自身もグノーシス主義によって救われたわけではなく、そもそもイエスへの信仰によってすでに救われていることをグノーシス主義によって確認しただけに過ぎない。イエスの復活の信仰(福音)は、それのみによって確かに人は救われるということをさまざまな客観的な事象から、実感しているが、この重要性は強調してもしすぎることはない。すでにイエスによって人類の原罪は贖われているのだ。
その意味でも、グノーシス主義における万人救済という矛盾した構造は、偶像崇拝的なものに陥りやすい構造を持っているとも言えるし、こうした矛盾点を解決する上では、やはり偶像崇拝を離れて、イエスの御名において祈るという形が最も重要な形式になるのだと思う。
この辺りの問題は、サタンが蛇に扮して、アダムとイブを誘惑し、善悪を知る知恵の木の実を食べさせ、楽園から追放されるという原罪という宗教的なシンボルに全てが集約されている。
その意味で、現代詩人の吉増剛造先生は、イェイツ、道元、親鸞、賢治、折口信夫と、ものすごい霊的なマッピングをされている。。。。グノーシス主義から、万人救済、そして西洋批判。日本の霊性とは何か?について。改めてとんでもない方だと唸らされてしまう。。。。
星も神の被造物であって、星を崇拝するというのも実際のところは違うんだよね。信仰を置くべき対象はあくまで神なので。

福音への信仰とグノーシス主義の限界

シンプルに言うと、救われるためには福音への信仰が大事。
一方で、知性を重要視し、霊的なことを「知的に」学ぶことは、グノーシス主義的であるといえる。しかし、ここで重要なことは、グノーシス主義を学んだからといって救われるわけではなく、むしろゲーテのファウストとメフィストフェレスのようにアストラル界のルシファー(サタン)と対峙することになる。そして、イエスがおっしゃるように、人に救いを伝えるならば、やはり知的なプロセスをたどるグノーシス主義ではなく、福音への信仰があらゆる全てにおいて大切なものであるということ。

―あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:8-10)

―知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げる(パウロ) (Ⅰコリント8:1-13)

占星術師からのキリスト教への改信

おそらく日本で、占星術を研究し尽くしていった結果、イエスの存在を確信して、キリスト教に改信する人って、日本の占星術の世界の中では、今までいなかったのではなかろうか。東方の三賢者というのも、占星術師(バビロニアの神官/マギ)のことだし、世界の東方であるところの日本の占星術師が、イエスの再臨を伝えるというのも、なんだか深い意味があるように思う。
エピファニーというメッセージが来るのも、東方の三博士のベツレヘム来訪を祝う日のことなのね。

興味深いことに

今、僕のもとで学んでいる方は、シリウス系の宇宙人というだけでなく、イエスへの信仰がある方だけなので、結果的に占星術師から、キリスト者として生きていくのにも何も問題がないというのも、面白い。ゆくゆくはバチカンでキリスト教神学をしっかりと学びたい。そのためにイタリア語の勉強を始める。
大々的に改信なんていわなくても、主の計らいのもと、自然に導かれるように大きな計画の一部になっている。