Mar22

「自己責任論」という世代観

小泉政権下の「自己責任論」的な雰囲気で言うと、当時は、テレビ番組だと「マネーの虎」が流行っていた時期。バブルが崩壊してから長い低迷の時代が続き(失われた10年)、終身雇用制や、年金制度が破たんし始め、格差社会が広がり、人生はサバイバルであると教えられ、勝ち組負け組論争がよく議論されていた時代。
そして、ちょうどミスチルなどのロスジェネの世代が、そうした社会の不条理と戦っている真っ最中で、強大な社会というある種の「敵」を前にして、「どこまで自分の手で生き残っていけるのかというサバイバル」=「何事にも頼らず全てを自己責任で生きる人生はかっこいい」という、時代背景だった。当時、問題作だった深作欣二監督/北野武出演のバトルロワイアルなども、あの時代に思春期や、911テロやその後のイラク戦争の不条理を目の前にして過ごした自分たちとしては、どこか共感できる部分があったように思う。当時はそんな社会背景のなか、思春期を過ごし、アイデンティティ形成の真っ最中だから、心理学的に言うと、こうした時代精神は、人生脚本にがっつりと影響を植え付けられているといえるね。
時代が移り変わって、特にSNSや、IoTのようなシェアのテクノロジーが登場してから、こうした雰囲気がガラッと変わった今、当時の雰囲気を振り返ると、まさにこれがジェネレーションなんだなと思う。
いうなれば、ちょうど上の世代の70年代生まれのビーバップハイスクールのような「ツッパリ、ワル=かっこいい」みたいな感じが当たり前世代を、どこか遠くで見ていた僕らの世代(80年代)は、「自己責任論」という社会の風潮の中で、思春期を過ごしていたことになるね。たぶん同じような感じで、下の世代は僕らの「自己責任論世代」をどこか遠くで見ているような感じなのだろうと思う。
ツッパリ世代の仮想敵は、センコーや、親、学校、大人たちであったが、自己責任論世代は、ツッパリ世代がそうした価値観をぶっ壊していったため、より抽象度が上がった「社会の中に蔓延するはっきりとは見えない、でも確実に存在する喪失感」と戦っていたようにも思う。それが自己責任論という形で表れていた時代ともいえる。ある意味上のツッパリ世代は、親や権威的なものに直接物理的に反抗すればよかったが、僕らの世代は、表面上はそういう形をとらずに、内面的なプロセスとして反抗していった=自己責任という形で、親や外側の権威に頼らない(つまりは内的なプロセスを通じて外側の権威を否定する)生き方を選択していったともいえる。実際積極的には頼らないという側面だけでなく、時代の変遷の中で、すでに権威が正統性を失ってしまっている以上、そもそも頼れないという側面もあっただろう。
ということは、普通に考えられば、今の思春期、青年期世代が向き合っているテーマは、こうした自己責任論という輪郭すらない時代であり、より抽象度が高い、根源的な問いと向き合う必要がある時代になっているともいえるだろう。そういう部分から、おそらく「社会起業家」といったような文脈が生まれてくるんだろうと思う。上の世代からすると理想主義的なものに見えるが、しかし、当の世代からすると実存にかかわる、非常に逼迫したテーマになっていくんだと思う。
総じてより抽象的で、哲学的な時代になっていくということだね。
ジェネラティビティを考えると、もはやこうした昔の時代に影響を受けた価値観が、今の時代は当然ではなくなっていることに気づかないと、時代錯誤にもなるし、世代間のコミュニケーションにおいて、基本的なOSの部分がかみ合わなくなってしまうね。それが壮年期に始まるジェネラティビティの獲得というテーマにもなっていくね。