Mar24

壮年期における人生脚本の書き換えの必要性

壮年期のテーマは言うなれば、自分が思春期&青年期の時代に影響下にあった社会的な背景に基づく人生脚本を、書き換えていくことだね。そうすることで、得たもの、失ったもの(得られなかったもの)を整理した上で、すでに新しい時代にそぐわなくなった古い脚本を手放し、ニュートラルに今ここを生きられるようになる。これをやっていかないと、壮年期はおじさん、おばさんになっていくし、(まるで思春期にそう感じていた対象のように)古い価値観に縛られた時代錯誤のウザい大人になっていくだろう。僕の世代(プレッシャー世代)だと、その典型的な例が、小泉政権時代の自己責任論や、勝ち組負け組的発想になっていくのだろう。そもそも普通に考えれば自己責任論や勝ち組負け組的発想が台頭している社会が健全な社会な訳がない。これはむしろ児童期や思春期の人間から見れば当たり前のことだし、そういう違和感を持った人たちが純粋な気持ちで社会起業家を目指すのも当然だと言える。無論、自己責任論によって培った実力はあれど、交流分析における人生脚本でいえばこれはれっきとした「強くあれ」「完璧であれ」の脚本であるし、そればかりではなく、最終的には破壊的脚本であるところの「社会的孤独」に行き着くことになるであろう。 壮年期のテーマは、こうした社会的に得たすでに時代認識として古くなってしまった(多くの場合は技術のイノベーションによってもたらされる)社会的価値観(与えられた人生脚本)を書き換えていくことにあるね。これは子どもがいようがいまいが関係がない。 その時代時代を司るポジティブな脚本というものがあって、しかしこれは社会のイノベーションによって、時代ごとに大きく変わっていく。つまりポジティブな脚本は、世代を経ると固定化され、柔軟性を失い、必ずネガティブな脚本になっていく。そもそも終身雇用制だって、あくまで我々の親の世代の限定的な脚本であって、そもそも戦時中を生き抜いた祖父の時代には関係がなかった。つまりすべからくして、壮年期はこうした思春期や青年期に影響を受けた社会的にポジティブだと捉えられていたはずの脚本を振り返り、その人生脚本を今の時代にあった適切な形で書き換えていく必要があるということ。 こうして時代にあった脚本の書き換えが可能になれば、当たり前のことだが、幼児期や思春期や青年期といった下の世代を育むジェネラティビティを獲得できる。そうでなければ、人生の停滞を生み出し、頭の固い「人間的魅力のない残念な中年=おじさん」になっていく。かといって思春期や青年期のようなアイデンティティの獲得ばかり考えている幼さのままでは、これもまた残念なおじさん。 特に自分自身の思春期や壮年期を振り返ってみて思うが、思春期や青年期の立場からすると、壮年期の人の持つ「人間的な魅力」は非常に重要である。そういう人たちにインスパイアされてきたし、そういう人でありたい。壮年期に手に入れるべきテーマはこうした課題になっていくのだろうね。 そういう意味でも、児童期、思春期、青年期、壮年期、老年期とライフサイクルごとにやるべき課題をクリアしていく必要があるということだね。