Mar30

技による救いと、信仰による救い。

日本のいわゆる「スピリチャル」(本来は形容詞ではなく名詞形のスピリチャリティというべきであるから個人的には非常に違和感のある言葉だが)の問題は、もともとキリスト教プロテスタンティズムの亜種として登場したクリスチャンサイエンス、その後ニューソート、ニューエイジと変遷を遂げたものを、アメリカから受容した際に、そもそもの文化的なベースにある「聖書の福音(イエスの復活への信仰)」が抜け落ちてしまっていること。そのために、アストラル界に入った際にサタン/ルシファーによる誘惑によって、ナルシシズムや悪につながる間違えた方向に進んでしまうこと。
例えば「自分を愛する」という表現も、ナルシシズムのことを示しているのでは無論なくて、主があなたを愛するように、自分を愛する(正確にはイエスへの信仰を通じて罪が赦されていると知ること/ありのままの自分を受け入れることとは、悔い改めるということ)という意味。つまり福音(イエスの復活)への信仰なしに、この言葉を受け入れると、多くの場合サタンの誘惑によってナルシシズムや悪の思想に陥ってしまう。
ドリーンバーチュー が、ニューエイジから伝統的なキリスト教に完全移行したのも、間違いなくこの海外における異文化受容の際に、福音を伝えるという要素が抜け落ちてしまったために、その構造的欠陥から人々の意識に入ってくるサタンによるマイナスの影響を阻止することができなかったため。ゆえに悔い改め、技による救いを手放し、信仰のみの救いへと移行した。文化の前提が違う他者には在り方でしか伝えられないし、そもそもキリスト教自身がそうであったように、異邦人への伝道において、技による救いではなく、信仰による救いを強調したのは、今日本で起きつつある同様の問題(異文化誤解とルシファーの悪影響)を防ぐ意味でも重要な選択だったと言える。
信仰による救済が当然であるところのキリスト教圏内ならまだ自浄作用が働くが、技による救済が基本である異教の国においては、そもそもそのベースとなるイエスの復活への信仰は何においても知るべき最も重要な要素になる。でなければ、福音が伝えられる前の旧約聖書がそうであるように、モーゼの十戒のように律法が何よりものすべての基本になる。(無論、新約の時代には、これは「信仰のみによる救い」によって完全否定されるのだが。)
つまり、仏教や神道がそうであるようにメンタル体によるアストラル体の統御、つまりお坊さんや神主に求められるようなルシファー(仏教的に言うと煩悩)を背けるための修行が必要だ。その意味で異文化受容された「スピリチャル」にはこうした重要な構造的な欠陥をはらんでいる。
同様のことは「愛」と言う概念においても言える。そもそも日本の仏教的な文化には「愛」と言う言葉を肯定的に捉える意味はなかった。仏教では「愛」は性愛や愛着の意味で用いられ煩悩の一つとして数えられ、離れるべきものと言われる。宗教的な愛を表現するには、「慈悲」と表現する方が正しい。
この「愛」の概念が入ってきたのは二回あり、その一つはキリスト教の伝来によって、もう一つはビートルズ(ロック音楽)によってもたらされた。
当時、ニューエイジの文脈を持って、日本にもたらされたロックミュージックにおける「愛(LOVE)」も、同様の問題をはらんでいる。
体制への反抗とはすなわち、伝統的な文化への反抗という意味であり、そもそもそれはキリスト教的な価値観が当たり前のように内包されていることが前提である。
キリスト教圏内であれば、問題がなかったが、文化が国境や文明圏を超えて伝達する際に、そのベースとなる宗教観の違いから、そもそも西洋圏の文化で、当たり前の前提としてある「イエスへの信仰」がないまま、受容してしまうと、そこにはサタンの影響が入り込んでくることになる。
ベタに対するメタとして作られた文化が、異文化受容されるとベタとして受け入れられてしまう危険性。わかりやすく言うと海外の人が日本の時代劇を見て、日本には未だ帯刀してちょんまげをつけた侍が現役でいると信じるような様子がここにはある。
キリスト教圏において、ハグやキス(手紙の末尾などにおけるキスを意味するxxxもある意味これに含まれる)がアガペーや、宗教的な感情に基づく行為であるのを、そう言う文化的背景を知らずになんとなくそれを受容した際に、性愛的な行為、恋愛的感情として、全く違う文脈で捉えられるのも日本特有の異文化誤解。日本人でハグが苦手という人は多いが、そもそもそれは当然の話で、アガペーの表現ではなく、エロスの表現として理解していれば当然の生理的な反応である。さすがに日本人でキスを挨拶として捉える人はいないが、宗教的なベースが違えば、そういう気持ち悪さを感じて当然なわけだ。
むろんこうした異文化誤解は、性愛とアガペーという似て非なる異質なものを混同させる要素になる。カソリックの神父が結婚しないのも、本来、この愛の概念の違いにある。
「愛しています」の言葉の背景に「(イエスの御名において、主が我々を愛するようにあなたのことを私も)愛しています」という隠れた文脈があるわけで、そこを前提として共有していないと、大きな誤解を生み出す。伝統的なキリスト教において、非信者との交際や結婚について、好ましいものと思われない文化的な背景や理由はここにある。自覚をしなければ、愛というベースにおいて、バウンダリーの問題を必ず生じさせてしまうためだ。
その意味でもキリスト教圏における文化を受容する際に、異文化誤解による負の影響を防ぐためにも、第一に福音や聖書の世界を知ると言うことが大事と言う意識は本当に重要なこと。
そういうことを日本のライトワーカーは自覚的になる必要がある。そう言うフェーズに日本も入ってきたと言うことだと思う。サタンの影響を防ぐためにも、自浄作用が必要だ。