Apr01

ありのままの自分を受け入れること

いわゆる「ありのままの自分を受け入れる」とは、キリスト教で言うと、自分を罪人として受け入れるということ。アダムによる原罪(メンタル界から物質界への下降、その結果、人間は死を体験するようになった)を背負っている以上、罪人でない人はいない。そして、一人によってその後のすべての人が罪人になったということは、また同様に一人によって、すべての人の罪は赦されるということでもある。神の子として生まれ、我々の罪のためために死なれた、イエスの御名によって自分の罪を認め、そして、祈るということは、自分が罪人であることを正面から受け止め、悔い改め、そして、それがイエスの御業によって、神との和解ができるということである。
「ありのままの自分を受け入れる」という言葉一つには、これだけ深い意味とプロセスがある。決して、セルフィッシュに生きるという意味ではないし、また赦す主体は神であって、一方的な恵みによるものであって、決して自分自身ではないということも大事。自分が自分を許すのではなく、主によって赦されていることを実感することで、結果的に自分を許せるようになるということ。

「信仰による救い」と「技による救い」について

プロテスタンティズムは、もともと教会の政治的な腐敗からの宗教改革として登場したが、その結果、人々が救われる条件をあぶりだしていった結果、聖書主義と信仰主義という2つの軸を得た。そしてその聖書主義に基づき、「技による救い」の要素を徹底的に排したことで、カソリックの教会権力を完全に否定することができた。確かに「技による救い」から、ルシファーは入り込むので、これは当時とても正しい選択だったともいえる。一方で、確かに「信仰のみによる救い」も、実際にとても正しいのだが、人は弱い生き物で、実際に救われているかどうかをその都度都度で知りたい。カソリックの中では祭儀を通じて「信仰による救い」とともにバランスよく存在した「技による救い」が存在していたが、プロテスタントではそうはいかない。そこで、マックスウェーバーの資本主義とプロテスタティズムの倫理で論じられているように、この要素を埋めるべく、世の中に価値を与え、そして、質素に暮らしたことで生まれる経済的な余剰(資本)こそが、結果的に、「自らの救い」を確信する要素とすることにした。これが(特にアメリカ型)資本主義の根底となった。
時代を経て、資本主義が台頭し、より物質的な富の価値が偏重されるようになっていく過程の中で、特に「技による救い」を教義上否定しているプロテスタントの人々は、救いへの確信を得る方法を、ヴェーダ神学や、インド哲学、仏教、ヨガなどの他宗教における「技による救い」を取り入れ始める人たちが増えていった。これが、ニューエイジ運動の背景にあったもの。
救われていることを実感したい、しかしそれを自分たちの先祖たちが教義の中では「技による救い」を否定してしまっているために、他の宗教体系で埋めなければいけなくなったというわけだ。
つまり、実際はイエスへの信仰のみにおいて救われるということは非常に正しいし、それこそが福音の本質なのだが、プロテスタントといえど、人間は弱い生き物であり、その確信をどこかで得たい、ゆえに、「技による救い」を通じて、自分が救われていることを知りたいという欲求があったということ。
その意味でも、決して「技による救い」を全否定すべきものではなく、バランスと中庸は非常に重要なものであるともいえる。それは、プロテスタンティズムから発生したクリスチャンサイエンスや、ニューソートがすべからく物質的な富を得ることに焦点を当てていること(現世利益)の傾向があることにも表れているし、ニューエイジ自体が、「技による救い」を主とする東洋の叡智を積極的に取り入れようとしてきたことでもよくわかる。ゆえに、人は「神の一方的な恵み」「信仰のみによって救われる」ことは真実であるが、同時に人は弱い生き物であるがゆえに「技による救い」によってその都度安心感を得たいということでもある。仏教の世界において、自己を滅却し、あらゆる欲を捨てていく仏道が存在するのも、こうした「技による救い」を求める人々にとって、できるかぎりのことをしたいという善い思いに基づいたものであるということも、軽視してはいけない要素だともいえる。
僕自身が、「技による救い」を長年ずっと扱っている理由も、同様の思いに基づいている。むろん、「技による救い」にはその構造上、必ず限界が来るということも確かで、最近になって「信仰による救い」を強調し始めたのもこうした背景がある。
そもそも、非キリスト教圏である日本人ゆえに、ある意味ここはすごくアバウトでも大丈夫でなんとなくきたのだが、あらためて整理してみるとこうした世界宗教のマッピングは現に我々の意識の中でしっかりと存在している。
バランスはとても大事だ。と同時に、神智学という西洋の「信仰による救い」と、東洋の「技による救い」の統合という、シンクレティズムに基づく学問、グノーシス的な学問探求は、やはり重要なものであり続けるといえる。何も、グノーシス的な傾向を持つ宗教観が勃興するのは、今の時代に限らず、ヘレニズムの時代や、ルネッサンス、近代ヨーロッパでも起こっていたことだ。常にそれは、人類史的な技術の発達によって、様々な異文化の人々が交流した時代の中でのできごとなのである。
むろん、グノーシス主義的な精神世界の探求は、「技による救い」の要素が入る以上、常にルシファー(サタン)の要素があることは間違いがないことであるが、それは精神的修養を通じて、人格を鍛え上げていくしか方法はないであろう。こうしたテーマは、すでにゲーテのファウストの中でもしっかりと扱われている。そして、それは仏教や修験道がそうであるように、非常に厳しい道だともいえる。こうしたことに自覚的になることが、ニューエイジャーとしても非常に重要なことだといえるのではないだろうか。

Apr02

精神修養

「技による救い」のためには、やはりルシファー(サタン)の影響をプロテクトするために精神修養はやはり非常に重要。日本に福音なきまま受容されてしまっているプロテスタンティズから派生したニューソート、ニューエイジはその意味でも、非常に危険なものになるということだね。ルシファーからすると入りたい放題。幸い日本は仏教、神道といった技による救いによって、精神修養の大切さを説いているからその点では防げるが、一歩間違えると非常に危険な受容の仕方になりうる。ニューエイジやニューソートを受け入れるには、まずは何よりも最初にイエスの復活について学び、正しい信仰を持たないといけないね。

ゲーテのファウスト

とてもシンプルに言うと、ヒーリングをするにしても、キリスト教、神道、仏教、神智学(グノーシス主義)、占星術、心理学、量子力学、宇宙物理学、それぞれを学究しながら、詳しくなるべきだということだね。その上で、自力(行いによる救い)と他力(信仰による救い)の両方をしっかりとおさえていくこと。まさにゲーテのファウスト博士の物語そのものだね。
最終的に、技による救いを究めたファウスト博士も、結果的には、技による救いによって救われることはなかった。しかし、一方でメフィストフェレスも予期しなかった形で、信仰による救いによって、ファウスト博士は救済される。どれだけ知を究めても、最後は、神の掌の上にいるにすぎない。ある意味、これはソクラテスの「無知の知」ともつながるものがあるといえる。人は考える葦なのだ。人間は、自然の中でもっとも弱い一本の葦みたいなものだが、それは考えるという能力をもった存在だということ。しかし究極的には、考えることによって救われるわけではなく、救いは主の一方的な恵みによってもたらされるということ。

Apr04

スピリチャルがオカルトと呼ばれていた時代は、

そういえば、よく考えたら、スピリチャルがオカルトと呼ばれていた時代は、そもそもよりアストラル界のルシファー色が強かったね。忘れていた。そもそも精神世界のアカデミック化が進むにつれて、少しずつこの10数年の間でも、ルシファー色って払しょくされてきたんだった。あまりにも当たり前すぎて、当たり前のことに気づいていなかった。

継続は力なり

2001年~6年の、自己責任論が台頭していた小泉政権下の時代背景で、身に着けた考え方なんだけれど、「組織に属さずに、自分らしい人生を歩むこと」というテーマをずっと実直に取り組んできた。その中で、結果的に自分自身がうまく行った要因を振り返ると、「抽象度を高めること(教育・自己投資)」と、「継続性(地道な努力の積み重ね)」の二つにあったと思う。
特に、この継続性というのは非常に重要で、本当に骨が折れることなんだけれど、あの当時の過酷な時代背景だったからこそ、どんなことがあってもあきらめずに努力し続けることの大切さを学べたと思う。継続性というのは、本当に、地味なんだけれど、結果的に一番大事で、なおかつ今の時代同時に軽視もされやすい領域だと思う。
よく例えらえる話だけれど、湖の白鳥のように、その時代で派手な成功を収めているようにみえる人も、水面下では一生懸命足を漕いでいる。経済学の理論においても同じことがいえるが、「労働の負の効用」を積み重ねていった結果、ようやく初めて「正当な対価」を得ることができるというのは、人間心理としては当然なことだと思う。
しかし、ミスチルの「終わりなき旅」のように、高い壁を目指して限界に挑戦し、もっと大きな自分を探すというアイデンティティを形成してきた青年期を過ぎ、今や立派な壮年期。壮年期のテーマであるジェネラティビティの獲得を考えると、時代背景も変わった今、この「継続は力なり」ということを、次の世代に伝えるということは、非常に難しいもの。ノウハウや、技術は、抽象度を高めた知恵によって、シンプルに伝えられるけれど、実際にそれを具体的な領域へと落とし込む段階においては、いかに努力を積み重ねてきたかが本当に大きな差を生む。ひとっとびで大きな成果を生み出すためには、結果的にそれまでにどれだけの人生の積み重ねをしてきているかがとても大事に思う。その意味で、一日一生。一日一日を大切に生きていくということは、どんな時代においても、軽視してはいけないと思う。

Apr05

非線形のシフト

4月1日の新元号が決定した後も、さらに着々と振動数が上がってきているね。物的な世界の非線形のシフトもすごい広範囲に広がってきている。着々とデヴァチャンに向かって進んでいるね。
まぁ、正確には、世界がシフトしているのではなく、自分自身がシフトしているんだな。逆に言えば、すでに準備されている世界が見え始めているともいえる。
そういう実体験からも、確実にマカバ(霊的な身体)は存在する。イエスの御名において、肉体が、魂の乗り物であるという時代はいよいよ終わりを遂げる。祝福されている新時代の到来。

時空の上昇感

時空の上昇感がすごいな。これがまさに譲位に伴う意識の変化なんだね。
メタ認知が広がった時って、パラダイムが変わるから、一時的に今までに自分がやってきたことをすべて否定したくなるけれど、そもそも、そういうもんでもないんだよね。これまでの道のりがなければ、そもそもメタ認知もできないわけで、最初からわかっていたらベタにしかすぎないからね。その意味で、ストーリー性ってとても大事。神が試みを与えるのも、まさにこのメタ認知=神を知るためだといえる。
全ては振り子のようにいったり来たりしながら、極から極へと移行する。大事なことは、その触れる振り子ではなく、その上の支点へと目を移すること。そうすれば、自然に目の前の問題は解決していく。事象、現れそのものには真実は存在しないし、大事なことはその振り子の働きを作り出している真の力点にしっかりと目を向けて、自分の内側を内観することだ。

Apr06

いよいよ

今朝起きて感じたけど、エネルギー的にいよいよ始まる感じがすごいね。春のスタートダッシュがいよいよだ。

暗黙知から形式知へ

今新しく占星術を学ぶための教材の準備をしているのだが、そもそもセラピストやヒーラーになるためには、基本的に前段階として、仏教、神道、キリスト教の基本的な構造を学んでもらったほうがいいね。もう少し突っ込んだ段階だと、ユダヤ教やイスラム教はもちろんのこと、マニ教や、ミトラ教、ゾロアスター教、バビロニア神学などの知識もあったほうがいい。マニ教やミトラ教の知識がないと、そもそも現代占星術のベースとなった神智学運動の理解も難しい。また、そもそも日本の仏教が上座部仏教と異なり、マニ教やミトラ教などの影響を受けた大乗仏教であるという自己認識もできない。般若心境が「お釈迦様の教え」という誤った認識を持つ人が多いのもこのため。そもそも般若心境は、釈迦の教えを乗り越えるべく(大乗仏教化)するために、作られた教典。つまり、正確に言えば、般若心境は、釈迦の教えを否定するために生まれたもの。宗教学のベースがないと、実践においても変な方向に進んでしまうし、常識として持っているべき教養は、暗黙知から形式知に変えた方がいいね。上手くいく人の当たり前を知らないと、いつまで経っても同じ失敗をグルグルしてしまう。
そもそも人類史的に癒しを提供してきたのは神であり、宗教であるから、まずはその屋台骨をしっかりと知ることは何においても大事ということは、ちゃんと暗黙知から形式知に変えないとね。
冷静に考えて、そもそも義務教育の中で、宗教学は高校の倫理で人物名等を少し触れるだけで(そもそも日本において高校は義務教育じゃないし、ゆえに倫理は選択科目なんだけど)、ちゃんと扱ったと言えるほどの内容は扱っていないからね。確かに文系の大学で、神学とまではいかなくとも、比較宗教学などを学ばないと、そもそもの世界宗教の教義の内容については知らないのがある意味当然なのかもね。
こういう教養的なベースがないからこそ、それが神から来るものなのか、魔からくるものなのか、見極めがつかないし、サタンは非常に巧妙なので、多くの場合サタンの影響を受けた変な変性意識を取り入れて、エゴが肥大化しちゃうのね。
そうなる人と、そうならない人の違いを数多く見ていくなかで、普遍的な宗教教育を幼児期や学童期に受けていたかが、本当に重要な違いになっていることが分かってきた。オカルトがスピリチュアルに変わって、敷居はだいぶ低くなったがゆえに、この類の霊的な諸問題は今後も非常に重要な課題になっていくと思う。
その意味でも、基本的な宗教教育を受けずに(つまりキリスト教におけるプロテスタンティズムの派生としてニューソートやニューエイジにつながっていくクリスチャンサイエンスが生まれているというベースを知らずに)ニューエイジやニューソート系に触れるのは結構危ない側面があるということ。福音を知らずに、ニューソートやニューエイジを信奉するのは、福音なきキリスト教で、もはやそれはサタンの教えでしかない。福音を知る機会が少ない、日本においては非常にこうした問題は、想像以上に深刻なものとして捉えた方がいいともいえる。
つまりシンプルにいうと、福音なき、引き寄せの法則は、サタンの教えになりうるということだね。当たり前すぎて、意識すらしていなかったけど、そもそも引き寄せの法則よりも、福音を知って信仰することの方が途方もなく大事。そうでないと非常に危険。
どこか気持ち悪いニューエイジャーというのは、このあたりが抜けているんだと思う。
神は、愛の神であると同時に、義の神でもあるからね。なんでもかんでも許容しているわけではない。我々が悔い改めるように、義に基づいて、愛を持って、試みをお与えになる。試みを通じて、自らの罪を意識し、イエスの御名を通じて悔い改めることで、赦される。それが主がお与えになった、人類への無償の愛ということ。そして、その神の無償の愛のように、自分に罪をなすものを赦し、またイエスの御名において祈ることで、自分の罪をも赦されていることを感じながら、互いに愛しあいましょうということ。おおもとの福音からくるところの「無償の愛」が意味するところが何かをわかってなければ、人を無償に愛することも無論できない。
何でもかんでもいいわけじゃないし、ましてイエスの福音を知らずになぜ無償の愛を受けられるといえるのだろう?(仏教は悟りと慈悲の教えであり、いわゆる無償の愛という教えではない。仏教においては愛別離苦というように愛は離れるべき対象である。何より法華経の教え以外は、すべからく技による救いなわけで、決して信仰による救いではない。)
その辺りの問題は日本のニューエイジ文化の重要な主の試みになっているように思う。

ミッションとは

自己啓発でよく使われるミッションという言葉は、そもそもルーツはキリスト教で、イエス・キリストが弟子たちに与えた、遠方へ行き 福音を広く人々に伝えるという使命を示す。その意味においても、福音の伝道に勝るミッションは存在しえないわけで、そもそも福音を伝えるためには人格の陶冶が非常に大事で、それを伝えられるだけの人間性を日々しっかりと磨いていかないといけない。結果的に人生のミッションがこうした人間としてどうあるべきかという自己言及的なミッションという形に落ち着いてくるということになる。ミッションは本来的に、ただの目標達成という短絡的な意味ではない。

【ミッションとは】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3?fbclid=IwAR2bTVwnPqgsyGwZ4HEIR2iAn1ALPq22yPfprvqBgYtWsFQM5ymNYnxgroE

【福音伝教とは】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E9%9F%B3%E5%AE%A3%E6%95%99?fbclid=IwAR19M5WCmJZwXg4PSO4kpOpGCSPnvwuKMS_e9oDGfjq7z0b6ydQvD-7cXEc

福音なきままのスピリチャルについて

そもそも今スピリチャルと呼ばれているものは、もとはオカルトと呼ばれていたものそのものであって、福音なきままスピリチャルを信じることは、福音なきままオカルトを信じるということであって、これは悪魔崇拝につながるのは、当たり前の構造であるといえる。

Apr07

第三密度から第四密度へのシフト

夢の中(第四密度以降の世界)ではっきりと、新しい世界(第四密度以降にシフトする世界)においては、3時間以降の過去については、C1(第三密度)の世界でそうだったように「因果律が崩壊」し、確定的なものではなく、確率的なものになる、というメッセージがきた。つまり3時間以降の未来の世界が決まっていないように、3時間前の過去の世界も実は今の自分に決定によって変わっていくんだよというメッセージ。かつてもそうだったが、そもそもそれを記憶(認識)するのが難しかっただけで、3時間前の多次元的な世界を記憶できるようになった今、だんだんこうした確定的な因果律ではなく確率論的に立ち現れていく時間のない世界が見えてくるようになるらしい。「因果律の崩壊」というメッセージは非常にクリアにきた。
クリストファーノーラン監督のインターステラのように死者の魂は次元を超えて自由に時空を移行し、また生前深い関係性を持っていた場所や人などの強い量子的もつれのあるC1においてはポルターガイストのように影響を与え、C1のタイムラインを分岐させ、新しく時間軸を作ることも可能になる。この世があの世化していく(死者が蘇る世界)というのもまさにこのことを示すのだろう。つまり意識の振動数が上がり、ある一定の閾値を超えたことで(第四密度以降にシフトしたことで)、過去に向かうベクトルにおいても確定的な因果律が崩壊し、未来に向かうベクトルがそうであったように確率的な世界が立ち現れていくという世界がやってきている。
ようは第三密度の物質期においては寝て起きたら、昨日までの世界の正しい記憶は忘れていたってこと。寝て起きて、昨日までの世界を都合よく、今日と連続性のある世界と思い込んで見ていただけで、そもそもそれが第四密度以降の世界においては、3時間以降の過去は確率的なもので、またさらに昨日というものはすでに連続性すらなくなっていたというのが真実で、それが続いていたと認識していたのはただの錯覚であったということ。

所得格差と消費格差について

この記事は、2015年と庶民の食べ物牛丼すらプレミアムになっていた時代で、高級品志向が究極まで強くなっていた真っ最中の分析だが、非常に興味深い。格差社会は、所得格差よりも消費格差の方が大きいということ。所得よりも消費の方が大きいということは、つまり簡単に言うと家計は立派な赤字なわけで、それを補填するための個人向けの借り入れがバブル崩壊以降の金融政策で90年代以降緩和されたことによって、個人の借金が増えていることで成り立っているだけなのでは。90年代以降、家計の平均貯蓄が減っており、なおかつ単身世帯の中央値が0円になっているのも、確実にバブル崩壊以降の個人向けの金融政策の緩和が関係している。そもそも生活を借り入れに頼っていて、貯蓄がない(当然時代背景的に所得も上がらない)ので、そもそもそうした経済的な理由から、結婚できないというのが重要な理由なのでは。離婚率がここ数年減ってきたのも、そもそも結婚する人が減ったという(結婚しなければ離婚もできないという当たり前のこと)が関係しているのも興味深い。つまり今後数十年というスパンにおいてはすでにフランスではそうなっているように、結婚離れと、より流動的なパートナーシップ契約や、家族の新しい形などが模索されていくことになるのだと思う。
そもそもこうした背景にあるものは、高級志向に基づくマーケティングで、それは実体経済に基づかないただのバブルだったのでは? ずっとこうした実体経済に基づかないいびつな状態を続けていくわけにはいかないから、IoTの発達によって、モノがシェアされる時代に入ったということだと思う。いまのキャッシュレスブームも社会システムとしての背景にはこうした理由があるし(貨幣そのものが20パーオフなどになることによって、高級品を中心とした価格弾力性が高い商品に対する消費性向は上がるので、一時的には売り上げは上がっていく)、お金のかつての仕組みの終焉はこの辺りに始まっていくのだと思う。小泉政権時代に意識の中にインストールされた格差社会という概念によって成り立っていた高級志向のマーケティングが、IoTの普及によって、成り立たなくなっているということでもある。
そしてこうした時代に思春期や少年少女期を送る世代は、そもそも物的なものに承認欲求を求めていくこと自体が、感性として、ダサい、古い、ナンセンス、オヤジ、オバサン的なものと感じるようになっていくのだろう。このあたりを時代感覚として、ちゃんと時代の変化に合わせていかないと、ただの時代錯誤の痛い大人になってしまうだろう。これがまさに壮年期におけるジェネラティビティの獲得というテーマになっていくのだね。
流行に流されず、なおかつ意識的に選択的に時代に適応するためには、自分の美意識(単純にファッション的な意味での美意識ではなく、それも無論含まれるが、カント的な意味でのより抽象度の高い判断力としての美意識)に基づくスタイルを持つ必要があるということだね。
実体経済に基づかない高級志向路線の結末って、バブル時代の負の遺産として有名なチバリーヒルズ(ワンハンドレットヒルズ)みたいになっていくんだろうね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%BA

Apr09

霊的な身体

霊的な身体についてしっかりと知るには、やはり聖書において他にない。ほかの学びだと、意識の振動数を高めてアストラル界に入ったとたんに、ルシファーの影響が出てくるし、その意味で、イエスと聖霊、神の三位一体において、学ぶことでしか難しい側面がある。技による救いや、修行をベースとした仏教でもそうだが、出家していない普通の人間がなんのディレクションもなく学ぶことは危険でしかない。日本に蔓延しているお手軽スピリチャルでは、ルシファーの影響を防ぎようがないし、あまりに霊的に無防備で危険すぎる。

Apr10

ラテンの気質と、アモーレの感覚

やはり時代が変わったね。これまで占星術をベースとして伝えてきたことを、福音をベースに伝えていく時がきているね。日本のスピリチャリティ(そしてそれは世界においても重要な位置を占める)において、福音の大切さを説くべき、次のフェーズに入る時がきているね。
ラテン系の人が明るいのって、そもそもカソリックの影響下にあって、プロテスタントと異なり「技による救い」もある程度許容してきたことで、実際に神の救いに預かっている実感を伴ってきたからこそ、細かいことは気にしない=既に神によって自分も周りの人たちも赦されているという実感があるからなのではないかと思う。
日本人によくただの女好きと誤解されやすい、イタリアのアモーレの感覚も、むろん主の愛(アガペー)、宗教的感情が前提にある。イタリア人のアモーレは、(神が私たちを愛するように)あなたのことも愛しているの意味なのだ。神の無償の愛は分け隔てがないわけで、その意味で、宗教的感情の延長線上に、恋愛感情をおくのが、アモーレの感覚。むろんギリシャ・ローマの長い歴史と文化の元で、美しいものを愛する(そしてそれは普遍的な宗教心とも深い関係にある)という感覚もそれを手伝っている。また、特にギリシャ彫刻に見られるように神によって造形された人間の肉体も、聖なるものであり、それを愛で愛することは、積極的なアモーレの表現の中に含まれている。
宗教改革の中で技による救いを完全に放棄したプロテスタントにおいては、救いとは人知が介在するところではなく神の一方的な裁きよって行われるものであり、つまりは予定説に基づくものなので、自分が救われているかどうかは生前に知る由がない。ゆえにせめてもの思いで、質素にストイックに生きることでその安心感を得ようとする精神から、ベースとなる精神性の違いが生まれてきたのだと思う。
言語的な差異も非常に重要で、そもそも宗教改革はドイツから始まったのだが、英語をはじめとしたゲルマン語族が、バチカンの権威から離れて、プロテスタント化していったのも、ようは一般庶民にとって、言葉の壁が存在することによって、ラテン語ベースのカソリックよりも、ルターやカルバンのようなゲルマン語族のプロテスタンティズムのほうが、宗教的な教育を受け取りやすかったということ。
また、同時に、同じラテン語族の中で、フランスの国民性だけが突出して、他のラテン語の国に比べて(細かいことを気にしないラテン気質から一線を引いて、人間の理性を重んじ、議論好きで、合理的な精神や、個人主義を重んじるという意味において)異質な理由はフランス革命期に共和制によって、宗教的権威を否定し、市民の手による革命によって王室を打倒し、合理的精神を追い求めてきたという歴史にもあるといえる。
その意味で、日本における普遍的な宗教教育という側面において、英語だけでなく、ラテン語族の中でもイタリア語を学ぶ大きな理由は、バチカンで日常的に話されているというだけでなく、そもそも言語的なエネルギー(国民性を含む集合意識、日本的に行くと言霊)として、ゲルマン語族にはない宗教的な意識、技による救いをある程度許容し、楽観的な人生観を持つ意識ベースを学ぶという意味において、コミュニケーションや、言語取得ということ以上の、深い意味合いがあるのではないかと思う。つまりは、イタリア語を学ぶことで、ゲルマン語とはまた違う形で、主の救いや福音のすばらしさを実感できる側面があるのではないだろうか?と思う。むろんそれは言語だけでなく、文化全般においてもいえるだろうが。しかし文化の根底に言語がある以上、決して軽視できないと思う。
このあたりの「技による救い」「信仰による救い」の問題は、アメリカ型資本主義社会と社会における幸福を分析するうえでも非常に重要な要素になるね。カソリック圏内における資本主義の在り方と幸福感は、またアメリカや、戦後それに追従した日本とはまた異なる位相にあるからね。結局資本主義社会を規定したものは、技に救いにあったのではないだろうかと。日本やアメリカがニューエイジ型の信仰形態、自己啓発的な形での新宗教の普及の形態をとっていくのも、ここに深い関係があるかと。これは、またあらためて分析する。
イタリア語はもちろんのこと、キリスト教神学をしっかりと根底から学んでいくことも、今後の研究の上では非常に重要な要素になってくるね。
つまりどんな国にあっても人間である以上、救いの確信(仏教だと悟り)を得たいということなんだよな。その確信の仕方が、技による救いなわけで、これは文化的な背景によって、宗教儀礼に求めたり、商業的な活動に求めたり、日々の労働に求めたり、学問に求めたり、ボランティアに求めたり、芸術活動に求めたり、千差万別。つまり生かされているだけでなく、技による救いを通じて、生きる意味、確信を得たいということ。
また、おそらくバチカンのおひざ元であるイタリアの離婚率は低いんだろうなと思って調べてみたら、やはりそうだった。先進国で離婚率は高くなっているとはいえ、やはり宗教観によってだいぶ事情は異なるんだね。アモーレの国だからといって、決して軽い結婚観なわけではない。むしろ結婚については非常にストリクト。おそらくマンマが強いのも、日本のかかあ天下じゃないけれど、宗教的な愛に基づく関係性であって、決して恋愛感情だけで成り立っている関係性ではないことが、社会的にもしっかりと考え方のベースにあるからこそなんだろうね。むろん家と家との契約だった日本人の結婚観と異なり、あくまで主の愛に基づく結婚観なので、夫婦間の愛の表現は日本人のそれよりももっとずっと豊かなことには間違いがないが。
https://moomii.jp/couple-family/italian-marriage.html

ブラックホールが撮影される

ブラックホール(つまり銀河の核)が初めて撮影されたニュースが速報でやってきているが、まさに去年の12月にチャネリングできていた内容(銀河の核となるメルキオールの意識体や、レンデュース やヴァイアムスの意識の接近)に一致している。http://www.ondorinohane.com/blog/2018/12/

星導学の研究の中で重力は、意識と同じものであることはわかっている。いよいよ確実にキリストの再臨、死者が蘇る世界、F27のデヴァチャンがやってくるというメッセージ通りの流れが生まれてきている。2019年前半というのもまさにピッタリだった。

ブラックホールとはすなわち死後の世界であり、それがついに可視化されたということ。つまり実際に死者が蘇る時が来たということだね。
ブラックホールの実在の証明は、リサランドール博士などによって解明されてきた重力波(重力子)とパラレルワールドの理論とも親和性が高く、科学的な手続きを踏む異次元世界についての研究もさらに進んでいくことになる。
無論マンデラエフェクトも、重力子理論と非常に深い関係にあるので、こうした不思議な現象もさらに科学的に解明されていくことになるであろう。

神智学の理論でいうと、このブラックホールこそ、ブッディ層の本質。マンデラエフェクトが起こり始めたのも、人類の集合意識の振動数が、レンデュース 、ヴァイアムス、メルキオールといった銀河意識(銀河のコアであるブラックホール)へと到達してきたことでついに観測可能になったということ。銀河のコアにつながることで、F42-F15で形成される意識のマインドフルネスの状態の固定化はさらに加速し、第四密度へと確実にシフトしていく。そうしていく中で、理論物理学もさらに大きくシフトしながら、F27(メンタル界)を基底層に持つ死者が蘇る世界(デヴァチャン)へと地球の振動数は大きくシフトしていく。

ブラックホールが肉眼で(天体望遠鏡で/可視光で)観察されたということは、つまりはこれまでは仮説でしかなかった銀河のコアがブラックホールという形で現に存在していたということを示している。つまり、太陽系も天の川銀河のコアにおそらく存在するであろうブラックホールを中心として、回転しているということを示すだけでなく、つまりは新しい銀河周期という時間軸空間軸が私たちの意識のグリッドのなかに組み込まれていくようになるということだ。
しかもそのグリッドが異次元時空の壁を超える「重力」によるものであることから、これまでの我々人類の常識をはるかに超える世界の構造が、物理学的な世界においていよいよ本格的に記述されるようになっていくということになると思う。

ブラックホールの特異点定理を証明し、「事象の地平線」の存在を唱えた宇宙物理学の世界的権威であるロジャー・ペンローズ博士の量子脳理論の仮説も、いよいよ本格的に実証される時が来ているね。
以下引用
ペンローズは臨死体験との関連性について次のように推測している。「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっているが、体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合、意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続けるか、あるいは別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86

いよいよすべてにおいて時が満ちてきているね。

Apr11

死者の蘇り

死後世界(ブラックホール)を肉眼(物質界の振動数)で見れるようになったインパクトはやっぱすごいな。つまり現世が、黄泉の国と並列になったということ。それだけでなく、宇宙物理学的にも私たちの天の川銀河の真ん中に、ブラックホールがあったということがほぼ証明された。つまり私たちは永遠の生命の周りを回っている受肉した存在。そして死ぬとその第一者(ブラックホール)へと還っていく。まさにこの構造自体が第一者(ト・ヘン)への帰還を志向する新プラトン主義や、グノーシス主義そのものだといえる。
今回のニュースは、シンプルにいうと、死後の世界(銀河のコアであるブラックホール)と、この世(銀河の光)とが、同じ地平に存在しているということ。すなわちこの世はあの世であり、あの世はこの世であって、その絶対的な境界線がなくなったということ。
これはいうなれば夢の中で目覚めるということでもあり、またこの世界が夢だと気づくということでもある。
夢や死後の世界とはすなわちアストラル界、メンタル界であり、今回はその実在が分かったということでもある。今回のニュースは、本当に人類史を塗り替える途方も無いことだね。
霊的な太陽(いわゆるグレートセントラルサン)を発見したとも言えるね。

映画インターステラを観ると今回の発見がいかに重要かが感覚的につかめると思う

今回のブラックホールの実在の証明の霊的な意味を深く理解するのは宗教関係者はもちろんのことながら、何よりクリストファーノーランやJJエイブラハム、新海誠さんといったSF映画の監督だろう。すでに彼らはこうした世界の構造に気づいているし、今回の科学的発見がもたらす霊的な意味を、誰にでもわかりやすく伝える役割を持っているので、またすごい作品が生まれてくるだろうね。
すでに公開されている作品で言うと、重力波、高次元世界、ブラックホール、死者の蘇り、タイムワープの関係性については、やはりクリストファーノーラン監督のインターステラを観ると、ストーリーとして整然と描かれているので物理学に疎い人にとっても分かりやすいと思う。

最後のパズルのピースが埋まる

昨日の会見で、アインシュタインの相対性理論においての最後のパズルのピースが埋まったというのは、まさに本当にそうだね。また、すでに重力波は観測されているが、ブラックホールの実在の証明というのは、つまりはマスでみた数理モデル上においては、重力波が粒子性を持った重力子がやはり存在するということと証明したことと同じ意味になるからね。重力子の巨大なスケールにおいての積分結果がブラックホール。会見の中でも言及していたけど、重力波の発見と補完性のある非常に重要な発見だ。

― ブラックホールは、アインシュタインが提唱した一般相対性理論に基づき、1916年にドイツの天文学者によって存在が予言された。同理論の正しさは2016年に発表された重力波の検出でも証明されたが、会見に同席した秦和弘・国立天文台助教は「物理学の法則が視覚的に捉えられたもので、重力波による検証と補い合うものだ」と強調した。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019041100162&g=soc

ブラックホールの肉眼での観察は、ようは、ペンローズが明らかにしたように、重力の本質=意識である以上、人知を超えるような生命体を発見してしまったってことなんだよね。しかも銀河のコアには常にそれが存在するという普遍的な発見にもつながっており、私たちの天の川銀河も意識を持つし、それだけでなく、宇宙空間には様々な意識が充満しているという非常に宗教的な意味合いを持つ発見につながっていく。今回の発見は、広い意味では、数理モデルではずっと示されてきたような「魂」が、肉眼で観測されたということにほぼ等しい。
ペンローズも数理モデルとして意識=重力(量子脳理論)だと発見しているのだが、重要なパズルのピースであるところの、重力波や重力子自体がまだ観測されていたなかったため、完全な証明には至っていなかった。しかし今回の重力波と重力子の実在の証明(アインシュタインの最期のパズルのピースが埋まったこと)で、一気に時代は動き始めるね。

死後世界と宇宙物理科学

これで死後の世界と宇宙物理学(素粒子研究)の研究も、どんどん進んでいくね。今までは重力の粒子性と波動性は、数理モデル上でしかなかったから、電池が入っていないミニ四駆みたいなもんだったけど、これからビュンビュン走るからね。特にブラックホールの発見は、死後世界と深くつながりがあることは、現代の物理学を少しでも学べば、誰しもがイメージできるようになった。(むろんアカデミックな文脈は慎重なのでそんな簡単に死後世界を認めないであろうが、普通に考えて、数学的に理解できればちゃんと想定はできる。これまで実在を証明するための材料となる、パズルのピースが埋まっていなかっただけ。)そうでなくとも、日本だと新海誠監督の「君の名は」がそうだったように、SF映画などで、誰にでも分かりやすい形で、こうした新しい時代の訪れを感じられるような雰囲気が作られていくだろうね。
そもそも、ブラックホールの「事象の地平面」の概念は、まさにプラトンのイデア的なものであるし、新プラトニズムや、グノーシス主義的なものであるといえる。僕の見立てではすでに2年前に以前の地球は隕石の衝突で崩壊しているため(そのために集合的にアストラル界に移動したため、マンデラエフェクトなどが起こっている)、実はすでに私たちがブラックホールの「事象の地平面」にいるという可能性もあるというのが興味深い。

裸の特異点

マンデラエフェクトは、いうなれば、この「裸の特異点」と深く関係しているのだと思う。すでに事象の地平面でおおわれていない特異点は新しい振動数(第四密度)の地球においては現象として観察されつつある。
つまり自分の意識の基礎振動数を、物質界から、アストラル界に移行することで(ブッディ意識に目覚め、霊的な身体の領域をマインドフルネス・F15にアンカリングすることで)、裸の特異点を作り出すことが可能になるということだね。これがまさにこの2年間ずっと研究してきたテレポーテーションになる。以下引用。

―物理法則の視点からは、特異点の存在は、因果律を破壊する原因になるので避けたいものである。ブラックホールなどの特異点は、事象の地平面で覆われることで問題にならないが、事象の地平面で覆われない「裸の特異点」が出現すれば物理的に厄介である。ペンローズ はこの立場から、宇宙検閲官仮説 (cosmic censorship conjecture) を提唱した。自然界には裸の特異点は存在しないだろう、という予想である。しかし、この仮説の真偽については、明らかではなく、特殊な状況の数値シミュレーションでは裸の特異点が出現する、という報告もある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9%E5%AE%9A%E7%90%86?fbclid=IwAR0mdT6MkzQlaI73Rn5W-HlM0qNlpPpGHOhmioD3M88H3OcN2T9LofGqqWs

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B8%E3%81%AE%E7%89%B9%E7%95%B0%E7%82%B9


こちらの記事も興味深い。F10以降においては、すでに裸の特異点は存在しうることになっているし、C1にも存在しうることが分かっているようだ。https://news.mynavi.jp/article/20170602-a249/

こちらも興味深い。この記事は、映画インターステラや、その背景理論を監修したキップソーン博士(というか、そもそもこの博士の存在自体が僕にとってはマンデラエフェクト)への言及がある。https://japanese.engadget.com/2016/02/23/5/

以下引用
―蛇足ですが、裸の特異点があり得るどうかについてはかのスティーブン・ホーキング博士と映画『インターステラー』や『コンタクト』に深く関わったキップ・ソーン博士の間で意見の別れるところです。ホーキング博士が存在しない派、ソーン博士が存在する派にわかれて賭けをしたところ、のちに「裸の特異点が存在する可能性」があることが判明し、ホーキング博士はソーン博士に(裸を隠すための)Tシャツを贈呈しています。

そもそも裸の特異点という理論そのものが、僕にとっては初めて聞いた理論なのだが、確かにこれが設定されることによって、確実に第四密度へのシフトは物理科学にもしっかりと証明できるようになるね。すごい。まぁ、これ自体もマンデラエフェクトだな。。。

「裸の特異点」はヤバイ。

裸の特異点のアイデアはやばいね。これって本当にC1のリアリティを作るマトリックスを崩壊させ、一気にF15へと持っていく力があるとてつもないアイデアだ。とんでもないなこれは。

まさにこの裸の特異点の説明は、F15が基底世界となったブッディ界の世界(新しい地球)の法則に他ならない。
というか、裸の特異点自体は、佐藤文隆さん(1938〜)という日本人研究者が「冨松・佐藤解」の中で発見したそうだが、、、これも自分にとってはマンデラエフェクトだな。。。。知らない。。。。というか、僕のタイムラインでは明らかに存在しなかったはずだ。。。仕事柄、宇宙物理学フリークな自分にとって知らないはずがない内容なんだが。また、パラレルワールドからこんにちはモードだな。これは。

以下引用
一般にブラックホールは、すべてのものをのみつくし、物理学の法則が通用しない特異点としてあつかわれ、そこでは何の情報も得られない暗黒の世界とされています。しかし「冨松・佐藤解」が描いたのは、この特異点は「裸の特異点」であり、何もかも見える領域で、しかもそこでは未来が過去であり、過去が未来である時空をもつ世界でした。
それまで考えられてきたブラックホールとは、ずいぶん様相の異なる新しい世界で、因果律に反するきわめてユニークな性質をもった姿といえます。賛否両論もあるところですが、この解の検証は将来にゆだねられています。
http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/kagaku_kag0211_sato.html

以下引用、
しかし、事象の地平面に囲まれていない「裸の特異点」(物質密度が無限大になる点)は、現在の物理学法則を破綻させる。
「もし裸の特異点が存在するなら、一般相対性理論は破綻します」と、今回のプロジェクトに取り組んだサラン・チュニヤスヴナクールは語っている。「もし一般相対性理論が破綻すれば、すべてが根底から覆されることになるでしょう。なぜなら、一般相対性理論では因果律を議論できなくなるからです。それだけで宇宙を説明できる理論では、もはやなくなるでしょう」
https://wired.jp/2016/02/22/five-dimensional-black-hole/

Apr13

ミクロな領域における裸の特異点

裸の特異点というのは、マンデラエフェクトの経験上、脳(マイクロチューブル)や、オーラ(マカバ)といったミクロな領域で起きているんだと思う。これは五次元以降の世界だと十分にありうる。

キップソーン博士

キップソーン博士という僕のタイムラインにいなかった人が急に出てきたけど、インターステラの理論監修をしていて、ホーキング博士との賭けで勝ってたら、知らないわけがないんだよね。しかも2017年にノーベル賞とってるし。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キップ・ソーン

こんなに有名ならまず間違いなく知っていたはずだし、非常に違和感があるね。
https://bunshun.jp/articles/-/4254

アミターバ

そういえば二年前からずっとアミターバ、アミターバとメッセージが来ていて、これは阿弥陀如来のことだったのだが、よく考えればこれは浄土真宗の教えであり、つまるところキリスト教のイエスの福音の構造と全く同じもの(浄土真宗の他力本願=キリスト教の絶対他力信仰、浄土真宗の悪人正機=キリスト教の原罪、極楽浄土=天国)を指していたんだな。家がもともと曹洞宗(禅宗)だったし、真言宗(真言密教)の寺の傍で育ったので、基本仏教において受容した救いの概念は技による救いのフォーマットだったので、キリスト教と浄土真宗の教義の深い関係性を知るまでは、浄土真宗についてよくわからなかったのだが、今となっては非常に興味深い。

口を酸っぱくしても伝えたいこと

ほぼ確信に近いんだけれど、今の日本の「スピリチャル(かつてのオカルト)」がはらむ問題は、キリスト教(聖書)の基本的な知識や、イエスの復活への信仰という福音に関して知らない人が多いということだね。これは日本の精神世界において、ある意味がん細胞のように酷い悪さをしていて、何の準備もプロテクトもなく不用意にアストラル界に触れてしまうことで、ルシファーの誘惑に引き込まれる人が非常に多いし、霊的な意味でも、物質界の中においても、かなり危険な状態になっている人が多い。このあたりは今後日本の「スピリチャル(かつてのオカルト)」の文化において、本当に重要なテーマになっていくと思う。福音を知り、そしてそれを信仰することは本当に大事なこと。これを知らないで、変にアストラル界に入ることは、非常に危険なので、口が酸っぱくなるくらいいいたい。
バブル崩壊後の日本においてリアリティがあったのは物的な危機(むろん霊的な危機もなくはなかっただろうが)だったけど、ある意味次に迎える深刻なテーマ(おそらく若い世代がより深いリアリティを感じ始めること)は、霊的な危機といえるかもしれない。霊的な堕落によって引き起こされる様々な問題は、非常に重要なテーマになっていくだろう。

鎌倉仏教

キリスト教的な完全他力信仰の浄土真宗の流れを汲んだ、一遍(時宗の開祖)の踊念仏(おどりねんぶつ)って、まさにキリスト教プロテスタンティズムから生まれたニューソート・ニューエイジがさらに変化した「自己啓発セミナー」におけるトランスミュージックにおけるダンスと、基本的に構造が同じだね。踊ることによって、変性意識状態に入り、内なる無限のリソース(ハートビート、今この瞬間を生きる、限界を突破する等)につながることによって、救われるという内容は、まさに一遍の考え方そのもの。盆踊りのルーツ。日本の盆踊りと、自己啓発セミナーがある意味同じような宗教的な背景があることは興味深いね。それこそ昔の盆踊りはもっとトランスめいていて、激しかったんだろうね。
技による救いの要素の抽象度を高めていった禅宗(道元の曹洞宗、栄西の臨済宗)と、完全他力信仰、救済仏教となった浄土宗、浄土真宗、時宗。
さらに日蓮においては、他力信仰と自力信仰の、両方の勢力を糾弾し、法華経に完全に帰依し、その上で、来世やあの世ではなく現世でもしっかりと救われなければ意味がないと説いた。現世利益の重要性は、いうなればこれは現代社会で言うところの「成功哲学」のような、アメリカ的プラグマティックな救いの文脈に近いといえる。シンプルにいうなれば法華経を通じてみた現世における成功哲学といえる。
鎌倉時代の日本仏教っていろんな意味で、世界中にある宗教的類型の全部盛りといえるな。。

Apr15

google翻訳の精度が見違えるくらいにあがっていた

google翻訳に人工知能のディープラーニングが搭載されたことで、2016年くらいから翻訳の精度がものすごくあがっているね。驚いた。人間の脳の神経ネットワークを模倣したプログラムだそうな。アプリがすごく便利。イタリア語の勉強に使える。
何気にこういうところからシンギュラリティが起こっていくのだろうな。というか、起こってきている。

Apr16

携挙について

これは、カソリックではなく、プロテスタントの教えなのだけれど、イエスの再臨には二つのプロセスがあって、空中再臨(携挙)と地上再臨がある。マンデラエフェクトや霊的身体の覚醒を見るとわかるのだけれど、すでに、携挙は起こり始めているように感じる。プロテスタントの教えでは、一般的に軽挙と地上再臨の間には(7年間の)大患難時代が訪れるとされていて、悔い改めイエスへの信仰を深めなければならない時代が本当にいまやってきていると感じる。

wikipediaより
携挙(けいきょ、英語:Rapture)とは、プロテスタントにおけるキリスト教終末論で、未来の主イエス・キリストの再臨において起こると信じられていることである。まず神のすべての聖徒の霊が、復活の体を与えられ、霊と体が結び合わされ、最初のよみがえりを経験し、主と会う。次に地上にあるすべての真のクリスチャンが空中で主と会い、不死の体を与えられ、体のよみがえりを経験する。

主の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖〔せい〕とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン

ノートルダム大聖堂

これはあくまでキリスト教においてはむろん異端であるグノーシス主義的、神智学的な見方ではあるのだけれど(なのでキリスト教的には全くお話にならない、論外な話なのだけれど)、ノートルダム大聖堂のエーテル体などの霊的な身体(むろんそれはイエスの身体でもある)は変わらずあり続ける。ある種の復活であるといえるし、むしろ、あくまでエネルギー体としてはより強くなる。
その上で、神智学に寄らない、普遍的、良識的な言葉で言えば、より人々の、心の中の主への祈りは強くなる。神の計画は完全であるがゆえに、人知の及ばぬところで、大きな計画を立てておられるのだと思う。
僕自身はあらためて、今回の件で、悔い改めと、福音を伝えていくことの大切さをより深く感じた。

牧師、福音師として生まれ変わる時

もはや占い師じゃなくて、とりくむべきこと、あるべき姿は、牧師、福音師なんだよな。占いと福音じゃよって立つ意識(振動数)が全然違う。というかこの5年くらいは、もともと占い師だとも全然思っていなかったんだけれど。
明確に今、内的召命を受けているんだよな。その確信は日々強まっていく。
僕にとってのマンデラエフェクトは、パウロのダマスコへの途上での回心の出来事に近いものがある。パウロはそもそも非常に熱心な神学者で、理論にも優れた人だった。しかし、最後の回心の一突きはイエスの奇跡によってもたられた。まったくもって理性的な理解ではない、内的な召命によってしかもたらしえない、圧倒的で、すべてを変えてしまう霊的な経験。

デンデラ神殿

もともと僕は、エジプトのデンデラ神殿にいた3世紀くらいのグノーシス主義的な聖書理解に基づくコプト教(原始キリスト教のひとつ)の司祭だったのだけれど(デンデラ神殿の天球図など、はっきりと記憶がある)、その時は福音の絶対他力信仰の重要性についてよく理解していなかったということなんだな。確かに、グノーシス主義には限界がある。それはキリストの働きによって、実際にグノーシス主義が異端にされたことからも、歴史が証明していることなんだけれど。グローバル化が進む中での東西宗教のシンクレティズム欲求の中で、グノーシス主義が勃興している今になって、やはりあらためてというか、ようやく絶対他力信仰の重要性についても、悔い改める機会が訪れているということなんだな。このあたりは深く祈り求めようと思う。
確かに、原始キリスト教で、グノーシス主義をとったコプト教の神官だったことを思えば、確かに自分の中で神智学的な欲求(グノーシスを求める欲求)と、イエスや福音への信仰があるということも、当時から自分の中にあったということなんだな。生まれ変わって今、いろいろと深く見つめる時が来ているんだと思う。仏教などの影響で、グノーシス主義が比較的受け入れやすい日本という精神的な土壌を選んだというのも、ある意味、コプティシャンっぽい選択だといえる。

オリゲネス

オリゲネスというメッセージが来たから調べたら、古代キリスト教最大の神学者。当時はまだグノーシス主義が異端とされていない時代で、オリゲネスというメッセージが来たのもおそらく自分がデンデラ神殿にいたころの記憶なんだと思う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%83%8D%E3%82%B9?fbclid=IwAR2VVYcJYPria2syBc_DO89EuDpetRWECmLJcNWw0XEiwUJRBOADqhGtvio

内的召命と外的召命

召命には二つあって、内的な召命と、外的な召命がある。

【外的召命】
①外的召命は福音宣教をとおしてもたらされる
②外的召命は御霊による間接的な呼び掛けである
③外的召命は普遍的である(万人に対する呼び掛け)
④外的召命そのものは常に無効である
https://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/32554031.html からの引用

【内的召命】
①内的召命は、御霊による直接的な召命である
②内的召命は限定的である
③内的召命は常に有効である
https://blogs.yahoo.co.jp/psalm8934/32554031.html からの引用

どれだけ、救われるためには聖書を読むといいよと伝えたり、コミュニケーションにおいて、福音のすばらしさを伝えたといっても、それは外的召命によるものであるから、普遍的であれ、間接的でしかないから、実際に主の愛が伝わるというところまでは、難しいということはよくわかってきた。だからこそ、福音師の在り方が大事だし、知識によってではなく信仰による祈りや、主イエスがそうなされたように赦しの愛を実践することが大事だし、ゆえに、伝道は常に大いなる犠牲に基づくものであるということなんだな。

このあたりを学んでいかないといけないっぽいな。
http://www.ichibaku.co.jp/cgi-bin/cart/cart.cgi?pid=000179

Apr19

携挙と空中再臨

携挙と空中再臨はほぼ実現しているね。物理学的に見ると、先日のブラックホールの撮影は、非常に大きな意味あいがあった。あれは、裸の特異点の実在を論証する重要なアンカーになるし(マンデラエフェクトという体験上、ほぼ間違いなく存在するのだが)、そうすると、相対性理論が想定する時空や因果論がすべて根底から覆され、時空の概念が一気に変わることになる。まさにこれこそ、空中再臨の徴(しるし)といえる。
まぁ、そもそも空中再臨や携挙、裸の特異点などのワードは、以前のタイムラインに存在しなかった(インタービューなどでほぼ確信している)から、それ自体がマンデラエフェクトなのだが。
プロテスタントの福音派においては、携挙はいつ起きてもおかしくないもの(イミネント)なものであるから、まさにこれが現在進行形で起きているということ。

普遍的教会

普遍的教会という概念が非常に面白い。
http://join.boo.jp/seminar/se005.pdf
https://www.gotquestions.org/…/Japanese-universal-church.ht…

教会とはそもそも建物ではなく、人。
そして、携挙されるのは特定の宗派や地域教会ではなく、イエスを救い主として受け入れたキリスト者の霊的なつながりこそが、「普遍的教会」なんだよね。
普遍的教会の概念で、非常にスッキリするね。

神智学における第一イニシエーション

神智学における第一イニシエーション「バプテスマ」は、イエスを救い主として受け入れること、そしてそれによってキリスト者の霊的なつながりであるところの「普遍的教会」に所属することを示す。福音は、外的召命(伝道や、地域教会、クリスチャンから話を聞くことなどで福音について知ること)によっても知りうるものだが、あくまでそれは間接的なものであって、有効召命ではない。聖霊の力による内的召命によって有効にならない限りは、神智学においても、第一イニシエーションを過ぎたとは言えない。
また、神智学などの技による救いを中心の教義としたものの問題は、第一イニシエーション後に、アストラル界に参入した際に、第二イニシエーション以降において、ルシファーの誘惑の危険に常にさらされるということ。これはあくまで神智学が、東洋の叡智であるところの修行という要素によってはじめてそれを退けるのであって、やはりポップカルチャー化したグノーシス主義(ニューエイジ)というのはここに非常に大きな問題が存在する。その意味でも、歴史上の中で、キリスト教におけるグノーシス主義は異端(つまり普遍的な教会の中に含まれない)のだと思う。神智学やグノーシス主義は、あくまでチベット密教の延長線上にあり、万人のための救いの教理ではない。それはすなわちイエスの教えではないということ。これは非常に重要なポイントだ。

「内なる神」という誤謬

自己実現や自己啓発という文脈ではよく「自分の中の〇〇」というワードが使われる。「自分の心の声」「自分らしさ」「自分らしい人生」など。もともとこうしたものの思想的なベースは、クリスチャンサイエンスやニューソートからきているものだが、それがニューエイジ的な文脈で、日本にわたってくるプロセスでは、肝心の「イエス様」という模範がなくなってしまっている。福音の大前提があって初めて機能しうるのが、自己啓発やニューソートなのだ。

このあたりが非常に誤解されて、福音を知らないことによって、「自己中心的に生きることが素晴らしい」と誤解して理解してしまっている人が多い。SNSの発達などをベースとして誰でも発信が容易になったことで、福音に根差していないサタン的な解釈が広がったという側面もある。これはスピリチャルムーブメントの中で、霊性が注目されたこの10年の光の反対側にある、暗い闇の部分で、とても悲しいことだし、ひとつの危機感を持っている。むろんそうした生き方は、聖書的な意味において、「滅びの道」であることを知らなければならない。神は愛の神であると同時に、義の神であるからだ。

「原因と結果の法則」などの初期のニューソート的な文献は、そもそもクリスチャンサイエンスなので、そもそも福音は当たり前の前提として明文化されて語られないため、イエス様の名前を用いずに、霊的な真実について書いてたはずが、日本に入る中で、一番肝心なイエス様が抜けてしまったので、その後、そこにルシファーがはいっていくことになった。
「原因と結果の法則」でいう「自分」とは、前提としてはイエス様に近づけていくことという常識があったが、その後の誤読の中で、どんどん「自分」=「エゴ」という要素が入ってしまい、間違った教えも増えてしまった。

東洋の思想を無理やり西洋に置き換えてしまったため、「私は神である」「内なる神」という変な言葉が生まれたが(僕自身も以前は無自覚によく使っていたと思う)、それは内容的にはすべからく間違えた教義だといえる。「あなたも(一神教の)神のようになれる」とといた非常にサタン的な考え方だといえる。仏は多神教だから、一神教の神ではない。神道における神も多神教であるから、クリスチャンサイエンスにおける神とは全く文脈が異なる。
正しく翻訳するべきは、「私は仏である」「内なる仏」「内なる仏の声を聴く」というべきだ。

なので、「私は仏」「内なる仏」いうのが、正しい表現。日本語の感覚で言えばよくわかるが、「私は仏です」「内なる仏の声に従う」というと、間違った方向には進まない。これは前提として、仏とはお釈迦様であり、すでに人格としてどうあるべきかというモデルや、(当たり前だが)仏教的な悟りはニューエイジにおけるアファメーションというお手軽なプロセスで得られるものではないという文脈が内包されているからだ。浄土真宗などの南無阿弥陀仏などの念仏は、絶対他力信仰に基づくものなので、ニューエイジ的アファメーションと全く異なることはいうまでもない。

主の再臨が近い

マンデラエフェクトなどの徴や、キリスト教神学などを読み進めていっても、主の再臨は確実に今起こってきている。本当に主が再臨する時だ。
神智学やグノーシス主義は、キリスト教神学からすると異端なので、キリスト教方面からは非常に扱いづらい。しかし神智学を仏教の教理という風に読み解くと決してタブーではなくなる。(むろん、キリスト教神学からすると仏教は異教の神なので相いれないわけで、では仏教の人は救われないかというと、普通に考えてそんなわけがない。実際に、僕自身もキリスト教だけでなく、仏教の教理(主に空海の真言密教と道元の曹洞宗)を深く研究していく中で、非常に魂は救われている。実際にカルマの浄化などは真言密教などの教理がなければ不可能であっただろう。そもそも技による救いと信仰による救いの違いによって、ベースの世界観が違うのだ。キリスト教が異教的要素を排斥する理由もよくわかる。そうでないと、確かに信仰による救済は成り立ちえない。)そもそもグノーシス主義は西洋の歴史の中で否定されているわけで、これはもう仏教の教えとして割り切るしか無かろう。そのあたりは、本当に日本人でよかったと思う。占星術も、キリスト教神学から言うとタブーだが、仏教の文脈で言うと宿曜経といって空海がもたらした経典のひとつである。
このあたりは、日本人が、神智学において、第四根幹人類の第七亜人種、霊的な意味でのアトランティスの末裔であるということが非常に重要な鍵になる。
ちなみに日本にわたってきている仏教は、釈迦が説いた純粋な上座部仏教は存在しておらず、マニ教やミトラ神学、ゾロアスター教などの影響を受けて成立していったが大乗仏教の影響が非常に強い。そういう意味でも教理の根本は、がっつりグノーシス主義だ。

Apr20

マンデラエフェクト?人手不足時代

おかしいな。僕のいたタイムラインでは、「人手不足時代」なんて言葉なかったはずなんだけど。結構昔から、人手不足時代が続いているということになっている。僕の時代は長く続いていた就職難だったし、そんなはずないんだけどね。
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%BA%E6%89%8B%E4%B8%8D%E8%B6%B3%E6%99%82%E4%BB%A3-183761
https://toyokeizai.net/articles/-/177910

Apr21

グノーシス主義と科学

よく考えたら、霊と肉の二元論をベースにして、霊智によって悟りを得るグノーシス主義って、よく考えたら科学そのものだね。科学の背景にある考え方そのものが、グノーシス主義だわ。そもそもの科学のルーツが錬金術や占星術なわけで、ベースの思想背景はまさにグノーシス主義でしかない。
創世記と科学的精神が根本から、反発してしまう。グノーシス主義の聖書的理解からの乖離はここに一番の問題があると言えるね。
その意味でクリスチャンサイエンスといった段階で、すでにサイエンスの枠組みを取っている以上、グノーシス主義的になるのは当然のことなんだな。
つまり科学と宗教はキリスト教的な価値観からいうとすでに最初の創世記の段階で、真っ向から矛盾してしまうことになるという非常に重要な問題をはらんでいるんだね。
そもそも宗教改革が人間の悟性に訴えかけるもの、神学をより論理的に読み解くことを訴える時点で、科学的な読み方をしていこうという姿勢は、そもそもグノーシス主義から生まれた科学的視点(事象の客観性)から生じるもので、宗教改革のはじまりからすでにグノーシス主義的な人間理解と神の絶対的な世界観の2極が内包しているとも言える。現世における教会を否定して、聖書理解に基づく理想的な教義を見出すということ自体、実はある意味現世の神(ローマ教皇)の否定と、それを乗り越える人間の悟性(霊智)をベースにしたものであるといえる。
ある意味、福音派にとってこうした矛盾点を解決する方法として、霊智は、すべて聖書それ自身に全てにあらわされているという形で、表現されることになるのだね。ゆえにそのポイント自体はもはや合理性を問うところではなくなるため、理論的には成立する。聖書以外に霊智無しということということであるので、成立していることになる。むろんここは科学的な精神と袂を分かつ部分であるということだ。カソリックの権威を否定し、合理性を突き詰めていった結果、神の言葉である聖書以外に霊智無しという結論に至ったのが、プロテスタント福音派ということになるね。確かにこの救済論の構造であれば、サタンが入りようがないね。すごい。

創世記と世界五分前仮説

旧約聖書の創世記の記述と、現代科学について思索を深めていると、「世界五分前仮説」のように一見矛盾しうる内容が説明できるようにも思える。というのも、実体験として大陸が一気に動いてしまうようなマンデラエフェクトを経験すると、これまでの相対性理論の限界を超える時空間を超えるマトリックスが存在しても何の不思議もないように思える。つまり創世記の記述に間違いはないということは十分にいえる可能性があると考えられる。
そもそもイエスキリストが、原罪を背負って死んで、墓に葬られ、3日後に復活し、人類の原罪を贖ったということは、そもそも科学的にいえば、死んだ人が、実際に「肉体」をもって復活したということ。物質としての肉体が死んで、また物質としての肉体が蘇るということを字義通り信じることが、キリスト教の教えの中での根本教理となる。そして、本当に実際にこれは起こりうることだということを、私は様々な研究から、間違いなく確信している。しかしこれは結局のところの福音への信仰を通じてでしか見えてこないリアリティであるともいえる。携挙や空中再臨などもいままさに体験しているが、本当にそうなんだよな。結局福音への信仰なしに、構造上、体験することはできないようになっている。

福音派について

2004年現在、アメリカ合衆国の全人口の26.3%が福音派であり、22%がカトリック、16%がプロテスタントである[41]。

とのことだが、アメリカ国内における福音派の数がすごいね。

これはつまり、アメリカ人の1/4が、携挙や、空中再臨を知っているということになるね。そんなに有名な教派の重要な教理を、この情報化時代において(しかもアセンションなどで非常に似たような形のことに言及されている時期に)今まで知らないことってありえるのだろうか?興味深い。

まじか。。。。。。

まじか。。。。。福音派の教義が非常に納得いくなと思っていたのだが、ドリーンバーチューも福音派に転向していたのか。。。。。。もちろん、キリスト教に転向したこと自体は、知ってはいたが、まさかそれが福音派だったなんて。。。。これはちょっとすごいことだぞ。。。。。。

シークレットとグノーシス主義

映画シークレットの「シークレットの公開を禁ずる」というシーンって、ようはグノーシス主義の異端審問のことなのか。そう読み解くと、いろいろ謎が解けてくるね。確かに、グノーシス主義は異端審問を通じて、禁じられなければならない密教であるし、一般に公開すべき内容ではない(つまりしばしばサタンが入り込んでしまうような危険なものになりうる教義である)ということなんだな。と同時に、歴史上の偉人たちが、シークレット(グノーシス主義)を知っていたということも、非常に確かにその通りだといえる。グノーシス主義に基づく、フリーメーソンが位階制を持つ秘密結社であるのも、そういう背景があるんだな。いろいろ、なるほど。

メシアニックアストロロージャー

今の自分の占星術師としてのポジションを表現するならば、キリストの再臨を待ち望み、福音の重要性を伝えるという意味で、メシアニックアストロロージャーといえるね。これはいうなれば東邦の三賢者がその元型、鋳型であるともいえる。
占星術に「救済論」を入れると、結局メシアの再臨と福音が大前提となる。こうしたフレームで考えると、今の自分の占星術師としての立ち位置はかなり明確になるね。
また、主が、啓典の民としてアブラハムを選ぶ前までは、宗教とはすなわちバビロニアの神学であって、それはつまりは占星術であった。ルーツをたどれば、占星術は、神と人類の間に旧約が結ばれるまでの時代においては、中心的な神学だといえ、その後、アブラハムの宗教が生まれてからは救いの中心原理は、聖書の世界へと移行していったといえる。
そして僕自身が今やるべきことは、何より聖書理解を深めることだね。占星術師から、福音師へと生まれ変わることが非常に大切な時だ。ちょうど、アメリカのニューエイジの旗手だった、ドリーンバーチューが、キリスト教福音派に回心したというのも(そしてそれがまさに異教徒であったパウロがダマスコスへの道の途中で、キリスト教へと回心した時のように、イエスが肉体をもって現れたという全く同じ奇跡を、ドリーンが体験したということも重要)。僕自身も、2017年3月から、まさに同じ経験をして、また主の御心と御業によって同じ道に進ませていただいているということも、非常に大事なこと。(このリンク先の2017年7月に書いた記事では、僕は体験したことを、もはやこれはギャグでしかないと混乱しているのだが、むろん今となって、様々な神学的研究を深めていくと、まさに主の栄光によってこれが奇跡を体験したということだということはいうまでもない。)

(第二コリント第12章より)無益なことですが、誇るのもやむをえないことです。私は主の幻と啓示のことを話しましょう。 私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。 私はこの人が、――それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです。―― パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。このような人について私は誇るのです。しかし、私自身については、自分の弱さ以外には誇りません。 たとい私が誇りたいと思ったとしても、愚か者にはなりません。真実のことを話すのだからです。しかし、誇ることは控えましょう。私について見ること、私から聞くこと以上に、人が私を過大に評価するといけないからです。 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

そもそも僕自身にとっては力強くキリスト教や福音を否定する理由は何一つない(むしろ福音を信じてきたのであって、今はその信仰告白をしているだけ)ので、むしろスムーズな移行だともいえるが。

正しい聖書理解

正しい聖書理解が日本で普及することは非常に重要だな。そしてその土壌はむしろニューエイジが広がって、なおかつその問題(サタンの影響)も明らかになってきている今、今こそ日本人が福音の意味を内的召命を通じて知るべきタイミングなんだと思う。
そもそも日本神道のルーツは、旧約聖書の世界にあるし、旧約の民だともいえる。その日本人がイエスの再臨に伴って、福音をしっかりと受け取り変容することができれば、これは非常に重要な意味を持つ。世界中の様々な宗教をシンクレティズム的に受け入れてきたある種の世界宗教の縮図としての日本の変容は、世界中に意識変容の鋳型として大きな影響をあたえていくことになるな。
まさにこれがイザヤ書の中で預言されていたことなのか。
「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」(イザヤ書24章15節)
まさに預言が成就されつつあるね。

ニューエイジムーブメントに巣くうサタンを退け、主の御名を尊ぶ時。

イザヤ書 24章15節 「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの神、主の御名を尊べ。」

まさにこの時が来ている。スピリチャルという形で一気に流行したニューエイジムーブメントから、正しい聖書理解へと日本人自身が意識を切り替える時、そしてニューエイジムーブメントに巣くうサタンを退け、主の御名、イエスキリストを尊ぶ時が、まさに今なんだ。
令和とは、霊和と解ける。つまり霊を和する時が今であり、なぜ天皇陛下が今このタイミングで譲位されるのかということも、聖書の預言から見ても、非常に深い意味があることは間違いがないと思う。

Apr23

カソリック教会と、アメリカ福音派。

どうも福音派の携挙説について見ていると、確かに「携挙が起こるから、福音派を支持しないと自分は救われない、ゆえにアメリカがイスラエルや中東情勢に介入して戦争するのも聖書に書かれているから避けるべきではなく、むしろ推進するためにドナルドトランプを応援して、実現すべきだ(これはまるで芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、自分が救われるためには、他の人はどうでもいい的なサタンな発想)」と捉えてしまう残念な人が少なくないようだ。そんな思想背景だと、そりゃカルトだと思われるし、実際そう思って戦争を肯定している教理ならばカルト同然だ。また、実際に福音派は、イラク戦争を推進した勢力でもある。
携挙について調べていると、こうした「恐れ」に囚われてる人、自分だけは救われたいという人間的度量が狭い思いを持った人も出てくるので、いくら教義そのものが正しくても、そうした教理を信じた人が、こうなってしまっては、残念な感じだと思える。
確かにマンデラエフェクトや僕自身に来ているメッセージと照らし合わせても携挙そのものは起きているのだが(しかしむろん僕自身は福音派ではなかったし、むろん日本人的なシンクレティズムの中でキリスト教の福音にも触れてきた人間だ。日本的なシンクレティズムとはすなわちグノーシス主義なわけで、それは福音派からすると目の敵にしているもの。むろん無節操なニューエイジムーブメントがいいといっているわけではない。福音を知ることは何にも置いて大切なことだ。)、いくら教義としては正しくても、問題は「大艱難時代を避けて、携挙されるためには、聖書を字義通りよんで、福音派にならないといけない」という人間のエゴに訴えかけるようなやり方は、もしイエス様だったらそうされないだろうと思う。まして、字義通り成句を読み解き、人が人を殺しあう戦争の現状を肯定するかというと、そんなわけがない。あくまで恐れに訴えかけるのではなく、愛と赦しの姿勢をメインに伝えていくはずだ。
福音派の字義通り聖書を読み解きすぎてしまう傾向というのは、こういった「艱難前携挙説」(それがいくら教義として正しくとも)に囚われてしまってむしろ恐れの中に入ってしまい、アメリカの戦争を肯定してしまう(ある意味預言は成就している)というような精神構造に現れていて、まるでイエスを十字架にかけたユダヤ人と同じような形で、危ない側面があるということも忘れてはいけないと思う。人は罪人であるから、大事なことは、自分自身が悔い改め、イエス様との個人的な関係性をしっかりと深めていくことが大切だ。

そのあたりの福音派に対する違和感は、やはりカソリックも感じているようで、

―「福音主義はかなり魅力的だ」と述べ、特に聖書に対する誠実な取り組み、キリストとの個人的な関係、そして道徳的水準の高さを挙げている。しかし、「福音主義の信仰と実践に関しては幾つか懸念がある。聖書の記事をあまりにも文字通りに受け止め過ぎるところである。科学の合理的な発見とキリスト教信仰の主張するところが矛盾するように見えるときや、世界の終わりが過剰に強調されてしまうような時に、カトリック側としてはやや首をかしげたくなる」と書かれている。

さらに、「時間的・空間的に拡大したことにより、キリスト教会がこれまでにしてきたこと」と切り離して聖書を理解する福音派の傾向に、カトリック側としては違和感を覚えているという。こうなると、両者の溝が広がり、「協調していくことに対して、それを無視したり反対したりして、カトリックとはうまくやっていけなくなる」としている。

福音派がカトリックをどう考えるかについて、霊的な事柄について語り合う共通の言語を見いだす必要を、この文書は強調している(「救われていますか?」はカトリック信徒に聞くには良い質問ではない。「あなたとイエス様との関係について話してください」が良いかもしれない)。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/22704/20161130/can-catholics-and-evangelicals-ever-understand-each-other.htm

と語っている。

こうした議論は、おそらくそもそも日本ではキリスト教が受容されていないのでほとんどないことだが、アメリカなんかでは頻繁に行われている議論になるんだろうね。

終末論と救済論

これは東西問わず人類の歴史上何度も失敗してきたことでもあるが、終末論と救済論が一緒になると、教義がカルト化して、普通に危ない集団になりうるから、そういう部分は本当に歴史に学ばなければならないと思う。人間というのものはそもそも愚かだから、謙虚さを忘れず、「赦しあう心」が非常に大事だと思う。愛とは、お互いの不完全さと、愚かさを赦しあう心だ。

宗教多元主義/宗教包括主義/宗教排他主義

宗教多元主義、宗教的包括主義、宗教的排他主義(一神教優位論ともいえる)、多神教優位論などは、世界の宗教を理解したり、自分の宗教的なポジションを理解するうえで、やはり非常に重要なフレームになるね。
キリスト教の中でも、宗教的排他主義をとる最右翼であるところの福音派(現在、アメリカでは最も支持者が多い)のことを知る上で、ひとまずこれはフレームとして知っておかないといけないと思う。むろん福音派にも過激派、穏健派といろいろなポジションがある。
【宗教多元主義】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E5%A4%9A%E5%85%83%E4%B8%BB%E7%BE%A9
【宗教的包括主義】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E5%8C%85%E6%8B%AC%E4%B8%BB%E7%BE%A9
【宗教的排他主義】https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E7%9A%84%E6%8E%92%E4%BB%96%E4%B8%BB%E7%BE%A9
【多神教優位論】(これもある意味形を変えた宗教的排他主義になりうる)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E6%95%99%E5%84%AA%E4%BD%8D%E8%AB%96