Apr01

「信仰による救い」と「技による救い」について

プロテスタンティズムは、もともと教会の政治的な腐敗からの宗教改革として登場したが、その結果、人々が救われる条件をあぶりだしていった結果、聖書主義と信仰主義という2つの軸を得た。そしてその聖書主義に基づき、「技による救い」の要素を徹底的に排したことで、カソリックの教会権力を完全に否定することができた。確かに「技による救い」から、ルシファーは入り込むので、これは当時とても正しい選択だったともいえる。一方で、確かに「信仰のみによる救い」も、実際にとても正しいのだが、人は弱い生き物で、実際に救われているかどうかをその都度都度で知りたい。カソリックの中では祭儀を通じて「信仰による救い」とともにバランスよく存在した「技による救い」が存在していたが、プロテスタントではそうはいかない。そこで、マックスウェーバーの資本主義とプロテスタティズムの倫理で論じられているように、この要素を埋めるべく、世の中に価値を与え、そして、質素に暮らしたことで生まれる経済的な余剰(資本)こそが、結果的に、「自らの救い」を確信する要素とすることにした。これが(特にアメリカ型)資本主義の根底となった。
時代を経て、資本主義が台頭し、より物質的な富の価値が偏重されるようになっていく過程の中で、特に「技による救い」を教義上否定しているプロテスタントの人々は、救いへの確信を得る方法を、ヴェーダ神学や、インド哲学、仏教、ヨガなどの他宗教における「技による救い」を取り入れ始める人たちが増えていった。これが、ニューエイジ運動の背景にあったもの。
救われていることを実感したい、しかしそれを自分たちの先祖たちが教義の中では「技による救い」を否定してしまっているために、他の宗教体系で埋めなければいけなくなったというわけだ。
つまり、実際はイエスへの信仰のみにおいて救われるということは非常に正しいし、それこそが福音の本質なのだが、プロテスタントといえど、人間は弱い生き物であり、その確信をどこかで得たい、ゆえに、「技による救い」を通じて、自分が救われていることを知りたいという欲求があったということ。
その意味でも、決して「技による救い」を全否定すべきものではなく、バランスと中庸は非常に重要なものであるともいえる。それは、プロテスタンティズムから発生したクリスチャンサイエンスや、ニューソートがすべからく物質的な富を得ることに焦点を当てていること(現世利益)の傾向があることにも表れているし、ニューエイジ自体が、「技による救い」を主とする東洋の叡智を積極的に取り入れようとしてきたことでもよくわかる。ゆえに、人は「神の一方的な恵み」「信仰のみによって救われる」ことは真実であるが、同時に人は弱い生き物であるがゆえに「技による救い」によってその都度安心感を得たいということでもある。仏教の世界において、自己を滅却し、あらゆる欲を捨てていく仏道が存在するのも、こうした「技による救い」を求める人々にとって、できるかぎりのことをしたいという善い思いに基づいたものであるということも、軽視してはいけない要素だともいえる。
僕自身が、「技による救い」を長年ずっと扱っている理由も、同様の思いに基づいている。むろん、「技による救い」にはその構造上、必ず限界が来るということも確かで、最近になって「信仰による救い」を強調し始めたのもこうした背景がある。
そもそも、非キリスト教圏である日本人ゆえに、ある意味ここはすごくアバウトでも大丈夫でなんとなくきたのだが、あらためて整理してみるとこうした世界宗教のマッピングは現に我々の意識の中でしっかりと存在している。
バランスはとても大事だ。と同時に、神智学という西洋の「信仰による救い」と、東洋の「技による救い」の統合という、シンクレティズムに基づく学問、グノーシス的な学問探求は、やはり重要なものであり続けるといえる。何も、グノーシス的な傾向を持つ宗教観が勃興するのは、今の時代に限らず、ヘレニズムの時代や、ルネッサンス、近代ヨーロッパでも起こっていたことだ。常にそれは、人類史的な技術の発達によって、様々な異文化の人々が交流した時代の中でのできごとなのである。
むろん、グノーシス主義的な精神世界の探求は、「技による救い」の要素が入る以上、常にルシファー(サタン)の要素があることは間違いがないことであるが、それは精神的修養を通じて、人格を鍛え上げていくしか方法はないであろう。こうしたテーマは、すでにゲーテのファウストの中でもしっかりと扱われている。そして、それは仏教や修験道がそうであるように、非常に厳しい道だともいえる。こうしたことに自覚的になることが、ニューエイジャーとしても非常に重要なことだといえるのではないだろうか。