Apr23

カソリック教会と、アメリカ福音派。

どうも福音派の携挙説について見ていると、確かに「携挙が起こるから、福音派を支持しないと自分は救われない、ゆえにアメリカがイスラエルや中東情勢に介入して戦争するのも聖書に書かれているから避けるべきではなく、むしろ推進するためにドナルドトランプを応援して、実現すべきだ(これはまるで芥川龍之介の蜘蛛の糸のように、自分が救われるためには、他の人はどうでもいい的なサタンな発想)」と捉えてしまう残念な人が少なくないようだ。そんな思想背景だと、そりゃカルトだと思われるし、実際そう思って戦争を肯定している教理ならばカルト同然だ。また、実際に福音派は、イラク戦争を推進した勢力でもある。
携挙について調べていると、こうした「恐れ」に囚われてる人、自分だけは救われたいという人間的度量が狭い思いを持った人も出てくるので、いくら教義そのものが正しくても、そうした教理を信じた人が、こうなってしまっては、残念な感じだと思える。
確かにマンデラエフェクトや僕自身に来ているメッセージと照らし合わせても携挙そのものは起きているのだが(しかしむろん僕自身は福音派ではなかったし、むろん日本人的なシンクレティズムの中でキリスト教の福音にも触れてきた人間だ。日本的なシンクレティズムとはすなわちグノーシス主義なわけで、それは福音派からすると目の敵にしているもの。むろん無節操なニューエイジムーブメントがいいといっているわけではない。福音を知ることは何にも置いて大切なことだ。)、いくら教義としては正しくても、問題は「大艱難時代を避けて、携挙されるためには、聖書を字義通りよんで、福音派にならないといけない」という人間のエゴに訴えかけるようなやり方は、もしイエス様だったらそうされないだろうと思う。まして、字義通り成句を読み解き、人が人を殺しあう戦争の現状を肯定するかというと、そんなわけがない。あくまで恐れに訴えかけるのではなく、愛と赦しの姿勢をメインに伝えていくはずだ。
福音派の字義通り聖書を読み解きすぎてしまう傾向というのは、こういった「艱難前携挙説」(それがいくら教義として正しくとも)に囚われてしまってむしろ恐れの中に入ってしまい、アメリカの戦争を肯定してしまう(ある意味預言は成就している)というような精神構造に現れていて、まるでイエスを十字架にかけたユダヤ人と同じような形で、危ない側面があるということも忘れてはいけないと思う。人は罪人であるから、大事なことは、自分自身が悔い改め、イエス様との個人的な関係性をしっかりと深めていくことが大切だ。

そのあたりの福音派に対する違和感は、やはりカソリックも感じているようで、

―「福音主義はかなり魅力的だ」と述べ、特に聖書に対する誠実な取り組み、キリストとの個人的な関係、そして道徳的水準の高さを挙げている。しかし、「福音主義の信仰と実践に関しては幾つか懸念がある。聖書の記事をあまりにも文字通りに受け止め過ぎるところである。科学の合理的な発見とキリスト教信仰の主張するところが矛盾するように見えるときや、世界の終わりが過剰に強調されてしまうような時に、カトリック側としてはやや首をかしげたくなる」と書かれている。

さらに、「時間的・空間的に拡大したことにより、キリスト教会がこれまでにしてきたこと」と切り離して聖書を理解する福音派の傾向に、カトリック側としては違和感を覚えているという。こうなると、両者の溝が広がり、「協調していくことに対して、それを無視したり反対したりして、カトリックとはうまくやっていけなくなる」としている。

福音派がカトリックをどう考えるかについて、霊的な事柄について語り合う共通の言語を見いだす必要を、この文書は強調している(「救われていますか?」はカトリック信徒に聞くには良い質問ではない。「あなたとイエス様との関係について話してください」が良いかもしれない)。

https://www.christiantoday.co.jp/articles/22704/20161130/can-catholics-and-evangelicals-ever-understand-each-other.htm

と語っている。

こうした議論は、おそらくそもそも日本ではキリスト教が受容されていないのでほとんどないことだが、アメリカなんかでは頻繁に行われている議論になるんだろうね。