May01

敵を愛すること

聖書の世界において、「ありのままの自分」を受け入れるとは、自分が罪人であるということを受け入れるということ。そして、その上で、イエスが、人類のためにアダムとイブの時代から続く原罪を背負って、十字架の上で罪をあがない、墓に葬られ、3日後に復活をし、今も生きておられるという事実を信じることで、主に、罪を赦されるということ。キリスト教における愛とは、すなわち赦し。つまり、汝の敵を愛することに、愛の全てが含まれている。
つまり罪人である自分が、主の一方的な恵みの愛によって赦されたように、自分に罪を犯す隣人について、赦しなさいということ。

「いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」
ルカの福音書 6:27-29

「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33

人間の潜在意識は、神ではなく、罪の意識である

ニューエイジにおいては、「ありのままの自分」を神と考える。なおかつこの神は汎神論的で、人格を持っていない。むろん旧約聖書における十戒という前提もない。そのためニューエイジにおいては、人間には、原罪とよばれる罪はない。こうした部分にサタンや悪霊が入ってくる。サタンの本質は、ナルシシズム。エーリッヒフロムが「悪について」で論じたように、悪とナルシシズムは常にセットになる。これはまさにエデンの園で、サタンが蛇に姿を変えて「あなたも神のようになれる」(つまりあなたの内側には全てを創造した神のような無限の可能性がある、あなたの潜在意識こそ神である)と誘惑した通りのことだ。
その意味で人間の潜在意識の本質とは神ではなく、罪の意識であるというのが、聖書的な正しい理解だといえる。それゆえ、その罪を、神の一方的な恵みの愛により、御子イエスキリストの十字架における贖いによって赦されたということが、聖書の中の非常に重要な考え方なのだ。

日本のニューエイジにおける「ありのままの自分を愛する」という誤謬

日本のニューエイジの文脈の中で、「ありのままの自分」を愛することが大切という考え方の中で、一つの重要な欠点は、聖書的世界の基礎知識がないことにある。
一般的に、日本人が契約という概念に疎いのも、そもそも旧約聖書の中において描かれる神と人間との間にある厳格な契約概念を知る機会がないからだ。
旧約聖書の世界において、神との契約(十戒)に背くということは、厳然たる罪であり、その罪をあがなうためには生贄が必要だという概念に基づいている。これは、神の義の側面が強調されている。
そして、神の愛の側面が強調された新約聖書も、あくまでこの義の神の上に成り立っている。新約聖書においては、人類を憐れんだ主の一方的な恵みの愛によって、人類の罪をあがなうために、何よりも大切な我が子を、人類の罪をあがなうために生贄にささげることに決める。
つまり、分かりやすく言うと、主は、自分に重大犯罪を犯した当の本人たちである人間の死刑判決という罪状を贖うために(人類の犯した罪は、原罪のために永遠の生命を失い、死を体験することになったという意味においても、まさに死刑に値する罪であったといえる。)、自分何ものより愛する子供を、生贄にささげることことになさったということ。この途方もない主の愛の姿が、キリスト教における神の愛の側面なのだ。
自分の子供を、自分に重大な罪を犯した犯人のために、愛する我が子を生贄にささげることでその犯人のすべてを赦す愛を考えてみてほしい。しかも、犯人は自分の罪の重大さを自覚せず、ともすると反省せず、そのままのうのうと人生を生き、死ぬまで罪を犯し続けるかもしれない。それでも、その人に救われてほしいと願い、忍耐強く、最後の審判の日まで待つことにすると決めた。主の愛は、そのような自分の感情に寄らない、主体的で、無償と犠牲の愛なのだ。イエスが語られた愛とは、この主の愛のように、互いを赦しあいなさい、敵を愛しなさいというメッセージが含まれている。それゆえ、「自らの罪を悔い改めなさい」と告げたのだ。
そして、主のこうした哀れみの愛に基づいて、自らが人類のために生贄になることを、イエス様は、進んで引き受け、そして、その御技は2000年前に十字架の犠牲と3日後の復活(死の超越)によって完成した。人類というと非常に壮大に聞こえるが、つまりは、2000年後の自分自身のために、神は自分の御子を生贄にささげられたということを感じると、いかにそれが自分自身にとって重大なことなのかを実感できると思う。
つまり「ありのままの自分」を愛するのは、私自身ではなく、主であるというという厳然とした前提条件が、日本のニューエイジ的な考え方には、すっぽりと抜けてしまっているのだ。

「自分を愛する」が単なるナルシシズムにならないために

日本には先に述べたような原罪とイエスキリストの十字架における贖いという概念がないため、ただのナルシシズムに陥ってしまうことが非常に多い。特にSNSが発達してからは、発信のハードルが下がり、多くの人が日本的ニューエイジの考え方を伝言ゲームのように発信するようにために、そのプロセスの中で、だんだんサタン的影響が強くなり、悪をもたらすナルシシズムのような危険な考え方が、広がっている側面がある。
そもそも、自分を罪人として、受け入れ、その上でイエスキリストへの十字架での犠牲と復活への信仰を通じて、主の愛を感じ、聖霊の働きによって、初めてその罪があがなわれた実感を得られる。
しかし、日本的な福音なきニューエイジにおいては、そもそも罪の意識をないものとして抑圧する。もしくは仏教的、神道的なものの延長線上にある瞑想、パワースポットやお守り、エネルギーワーク、パワーストーンなどの「技による救い」によって、ネガティブなカルマや潜在意識の中のマイナスの脚本を解消し、自力救済していこうとする。むろん技による救いはあくまで個人救済の枠組みを超えないので、技による救いには限界があるし、むろん集団的救済論にはなりえないということだ。むしろ十戒で禁止されている偶像崇拝がそこにはあるわけで、これはサタンがつけいる余地が常にあるということ。そもそもニューエイジ特有のライト感覚な技による救いで、救われるわけもない。
いうなれば死刑判決を宣告された人が、一縷(いちる)の望みをかけて、刑務所の中で罪をあがなおうとまじめに模範囚になろうとする、もしくは脱獄を計るようなもので、これは主の一方的な愛によって、恩赦を受け、罪から放免されることと、全く持ってベースとなる救いの教理が違うのだ。
主の一方的な恵みによる赦しの愛、福音、イエスキリストの存在を信じないで、ありのままの自分を受け入れ、赦すということは、そもそも構造として無理があるのだ。救いというのは、自分が自分を赦すことの中にあるのではなく、あくまで主が自分を赦すという一方的な恵みによる愛がベースにあるのだ。

May02

聖書

聖書の学びを続けているが、驚くほど、今まで学んできたすべてのことがこの1冊の本の中に含まれている。また、それだけでなく、途方もないくらいの神の教えがこの1冊の中に含まれていて、確実にこれが神の言葉であることを確信する。ただただ驚くばかりだ。と同時に、神の御心によって準備された、こうした素晴らしい本があることが、本当にありがたいことだ。

グノーシス的脱獄か、恵みによる恩赦か。

グノーシス主義は、いうなればこの現実と呼ばれる監獄を出るための、脱獄の方法。映画の「ショーシャンクの空に」は、まさにこうしたグノーシス主義的な世界観(無実の罪にとらえられた主人公が、終身刑になり、模範囚になっていくことで、塀の中の世界を変えていこうとする物語、続きは…ネタバレになるのでいえない。)だといえる。仏教では、この塀の外にでることを、「悟り」や「輪廻転生からの解脱」と呼んでいる。基本的に一般的な宗教というものは、「技による救い」をベースにしている。映画マトリックスも、まさにグノーシス的だ。
しかし、聖書の世界は、主による「恩赦」であり、イエスを救い主として受け入れる全てのものが、その「恩赦」にあずかることができる。イエスの言葉は、すべてのサタンの作用(仏教だと煩悩、神道だと穢れ、スピリチャルな文脈だとマイナスエネルギー)といったものを、取り払う力がある。そして、ゴールもとてもシンプルで、すべての人が最後の審判の日に「永遠の生命」を得るに至るという明確な答えを、用意してくださっている。
これは、本当に素晴らしい恵みで、僕自身は、「技による救い」救いをベースにした神智学やグノーシス主義を通じて、ある意味「脱獄」的な経験をした魂であるが、これだと、僕だけ救われて、他の人が救われない。これだと、僕自身が今回の地球に生まれてきた意味が、全く意味がないなのだ。
すべての人が救われて、初めて意味がある。これは、アトランティスの時代に、スターピープルとしてやってきて、人類にグノーシスを伝えたが、しかし結果的にうまくいかず、人類を救えなかったというある種の深いトラウマを持った魂にとっては、共通する願いではないだろうか。
その意味で、主がもたらした恵みによる愛は、本当に深い意味を心の深い部分で感じ取る。そして、感謝の気持ちが沸き起こる。今回は、すべての人が救われてほしい。これは本当に僕が、心底、心の深い部分から、強く願い、祈り、求めることだ。
イエスキリストの御名において、すべての人が救われますように。アーメン。

二極化する世界を統合するイエスの御言葉。

二極化する世界を統合するイエスの御言葉。

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。」
ヤコブの手紙 1:9-11 新共同訳
https://www.bible.com/1819/jas.1.9-11.新共同訳

貧しさもまた主のたまものであり、貧しさの中でしか、人は主の偉大さを感じられない。日々の暮らしへの感謝の気持ちも、貧しさゆえに感じることだ。富は人を傲慢にさせる。
また、その一方で、「富むものは自分が低くされることを誇りに思いなさい」という御言葉も、富むものにとって、非常に深い救いの言葉だ。最も霊的に富むものであるイエスキリストを、すべての人類の僕(しもべ)として、主は御遣いになった。富むものは、自分が傲慢になることを常に恐れ、また人とのつながりを感じられず、孤独になることを恐れている。しかし彼を富ませる社会的な地位や名声ゆえに、そうした孤独は誰にも理解されることはない。そうした苦しみの中にいることもまた、主の試みのひとつなのだ。その意味で、イエスの御言葉は、自らを世界で最も低いものにしてくださる。これはとほうもないイエスからの恵みの言葉なのだ。

何もこれは、物的な富だけではない。その人が持つ現世的なたまもの全てにおいていえること。その人しか持っていない長所、ひとから羨まれること(外見的な美、裕福な家に生まれたこと、人よりも優れた能力や知性、社会的な地位、社会から評価される能力)によって、人は嫉妬や嫉み、やっかみ、孤独という苦しみを受ける。「美人薄命」というのも、まさにこうした苦しみを表現しているのではないだろうか。
しかしこうした人に気づかれにくい、そしてともすると、孤独ゆえにサタンの僕になってしまうような、苦しみをも、イエスは、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。」と勇気づけてくださるのだ。そうした賜物を、僕(しもべ)として、社会のために生かしなさいと、勇気づけてくださるからだ。

「身分の高い者も低い者も、 神の目から見ればみな無に等しく、 天秤で計れば、空気より軽いことがわかります。」
詩篇 62:9 JCB
https://www.bible.com/83/psa.62.9.jcb

イエスキリストの御名において、お祈りします。アーメン。

May03

善悪を知る木の実

善悪を知る木の実、というのは、言うなれば初めてそこで人類は「悪」を知り、また「悪をなす自由」を手に入れたということか。原罪を犯す、無垢の時代までは、悪は入りようがなかった。この世界に初めて悪と死が入った瞬間。つまり本義的な意味では、「悪を知る木の実」「悪をなす自由を得る木の実」だといえる。

汝の敵を愛せよ

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」
ルカの福音書 6:27-29

ありがたい言葉だよな。これは忍耐強く、無理にそうしましょう、ということではない。

そもそもこれは、自分が憎まれたり、のろわれたり、侮辱されたり、頬を殴られる理由があるのにも、ちゃんと理由があるよということ。自分だって完璧な神様ではないわけで、必ず罪を犯す。しかも知らない間に罪を犯している。
だからこそそうなることを悔い改めて、イエス様の御名において、神様に赦されるように祈り求める。イエス様は、こうして人から嫌われる原因を作る罪を、何の関係もない私たちのために、すでにあがなってくださっている。
神様にこうして自分の罪が赦されたら、どうして他の人、自分を憎む人や、のろう人の罪を裁くことができるだろうか。
神様がイエス様への祈りを通じて、私たちの罪を赦してくださったように、また隣人の罪を赦しましょう、というのがこの言葉の大切なテーマ。キリスト教無償の愛の背景にあるもの。

私たちの罪をお赦しください。私たちも人を赦します。アーメン。

人が、人を裁くことほど、無意味なものはない

そもそも人はすべからく皆、原罪を背負っている。人が、人を裁くことほど、無意味なものはない。裁けるのは三位一体の主だけで、しかも主は、その原罪を自分の大切なひとり子を生贄にささげ、赦した。なおかつそれでも罪を犯す人類について、最後の審判の日まで、悔い改め、罪から救われることを、忍耐強く待っておられる。
ヨハネによる福音書 8:1-11 の中で、その三位一体の主は、あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさいと告げた。そして、その罪人が救われたのち、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない、と告げた。愛とは赦しである。
「イエスはオリーブ山へ行かれた。 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕」
ヨハネによる福音書 8:1-11 新共同訳
https://www.bible.com/1819/jhn.8.1-11.新共同訳

May04

聖書研究

よし。ほぼ間違いなく、聖書研究を中心として活動していけそう。主の導きだね。これからグノーシス主義的神智学から、三位一体論に基づく聖書研究に中軸が移っていくことになると思う。日本の霊性において、これから非常に重要な研究テーマになっていくことを深く確信している。

May05

主を愛すること

主の栄光を表すとは、すなわち自己実現を超えた自己超越のこと。被造物である我々にそれぞれ主から与えられた賜物があるということは、普遍的な教会を通じて、主の御心が天においてなされるように、地にもならせ給うように、各々の賜物を、イエスを礎石として組んでいくということ。聖書における最大の目的は自己実現ではなく、主を愛することであり、自己を超越することにある。ニューエイジ と違う部分はまさにこの部分。ニューエイジは、自分が現実を創造する神(主/主人公ー本体主人公という言葉は主の敬称)であると伝えるが、そもそもこの思想的なベースがサタンや悪霊が入る経路になってしまうということを深く学ばなければならない。つまり、自分の人生の主人公は自分ではないということ。自分を愛すること以前に、まずは主を愛することを第一義に置くことが本当に大切。

May07

グノーシス主義から、三位一体の福音主義へ

僕のところに学びに来ている方々は皆スターピープル(主にシリウス系)だが、結果的に皆、福音書の話をしても全く問題がないばかりでなく、むしろグノーシス主義を中心としてきた今までよりも、さらにより主の愛と恵によって深く救われていく実感がある。
つまりニューエイジやグノーシス主義から、三位一体の福音主義に変わっても何も問題がないばかりでなく、むしろ、福音主義のほうが、スターピープルだけでなく、スターピープル以外の人たち(この地球上の大多数の存在であるところのオリジナルのヒューマン)にもしっかりと救済的なメッセージを伝えていけるので、そちらのほうが、自分自身のミッションを果たしていくうえで、ずっと効果的なアプローチだといえる。グノーシス主義は、スターピープルには自分の故郷を思い出させたり、孤独を癒す薬になるが、しかしそうではないヒューマンにとっては、むしろアストラル界のルシファーや悪霊と出会うことになり、大きな害になる。もし、三位一体の福音主義で、スターピープルも、ヒューマンも両方とも救えるのならばと思ってきたが、まさに本当に両方ともしっかりと救える教理だということがよく分かった。ゆえに、聖書研究を本腰を入れて始めたこの1ヵ月だけでも、グノーシス主義によって立つ理由は大分無くなってきている。つまり、占星術師(すでにこの5年ほど占いをしているという感じは全くないのだが)から、牧師や福音師としての自分の在り方へとシフトする時が今なんだと、すんなり受け入れられるようになってきている。これも三位一体の主の導きだね。
主の栄光を賛美し、イエスキリストの御名においてすべての人が救われることを、お祈りいたします。アーメン。

もはや大切なことは自己実現ではない。主の栄光を称えること。

目指すべき目標は、もはや自己実現ではないな。大事なのは、主の栄光、主の賛美。ありのままの自分は、罪人でしかない。御子イエスキリストの犠牲と復活によって、主が自分を赦し、愛してくださったように、人を赦し、愛していくこと、その中で主の栄光を示す生き方をしていくことが、大切なテーマだ。国と力と栄光は、永遠に主のもの。主イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

May08

主の愛の途方もない大きさ

主の愛の途方もない大きさを、しみじみと実感する。

May09

三位一体論と異端

キリスト教における父と子と聖霊の三位一体論とは、ほかのマニ教やミトラ教、ゾロアスター教などの技による救いをベースとした異教やシンクレティズム宗教との混交を避ける上で、鉄壁の守りを成す教理だ。これは行いによらない、主の恵みに依拠する絶対他力信仰をベースとする救済宗教として、サタンや悪霊の影響から人を守る上に置いて、絶対に外してはいけない教理であり、ゆえに三位一体を取らない宗派は、異端として審問されてきたということなのか。すごい。
現代においては、ニューエイジ や、神智学なども、技による救いをベースにした教理であり、一神教や三位一体論の否定(汎神論的シンクレティズム)に基づくものなので、れっきとした異端となる。ニューエイジや神智学をベースとした教理が、SNSなどで伝言ゲームのように伝達されるに従って、サタニックな影響が現れていき、自ずと変な方向に進んでしまうのは、基本的教理が本質からずれているからなんだな。そういう意味で、正しい聖書理解はさまざまなニューエイジ 系のカルトに見られるような取り返しのつかない間違いを犯さないためにも、必須の知識だと言える。基本的な聖書理解がないゆえのニューソートやニューエイジ 受容という日本特有の特殊な霊性の問題は、危機感を持つべきこと。
おそらく聖書の中に書かれている反キリスト(666)とは、このニューエイジ 的シンクレティズムの中でしばしば中核的な存在として据えられるマイトレーヤ(神智学ではキリストマイトレーヤ と呼ばれ、キリストの再臨であるとされる)のことを指している。つまりニューエイジ文化においてシンクレティズムの結果生まれる弥勒信仰だ。
666とは、シンクレティズム宗教の日本において信じてきただけに残念なことではあるのだが、これは弥勒であり、日月神示の中で書かれる国常立尊(クニノトコタチノミコト)とは、サタンのことである。日月神示では、弥勒のことを567と表現するが、これは獣の数字666の天上界の6から1を引いて、人間界に1を足して、地上界では完全数の7になるように整えた数。ゆえに666が567となる。釈迦如来の入滅後56億7千万年後に弥勒如来が来臨するという数字も、この567である。むろん日月神示の中でも、国常立尊が、サタニックな存在であることは決して否定はしていない。もちろん、マイトレーヤがキリストであるということもない。
本来、弥勒信仰は、マニ教やミトラ教などの影響を受けて、形成されたものなので、日本に渡ってきている仏教はオリジナルの仏教(上座部)ではなく、かなりシンクレティズム化が進んだ教理で、実質はマニ教だと言える。そもそも自力救済理論である本来の上座部仏教と、他力信仰が入る大乗仏教は、理論的には両立しあえないのだが、日本に入ってきた段階でベースがマニ教的なシンクレティズム宗教になっているので、すでにいわゆる仏教ではなくなっている。まぁ、もともとが、技による救いなので、サタニックな影響は自力で抑えられるから今までは問題はなかった。しかし、70年代以降グローバル化が始まった段階、アメリカからニューエイジ文化が入ってきてからはそうもいかなくなって、実際にオウム真理教事件や、ライフスペース事件をはじめとしたカルト宗教による問題は、平成を象徴するような事柄になった。そうしたことが起きた後も、ニューエイジ 文化が「スピリチュアル」という(形容詞なのに名詞として使われる)不思議な名称で台頭する背景には、そもそもこうした福音理解がないことによるサタンの影響が出やすいシンクレティズムおよび汎神論的な日本の特殊な宗教的環境があると言える。
まだキリスト教圏内において、比較的純粋な動機で始められたクリスチャンサイエンスだった頃の本来のクリスチャニティ から、三位一体説を取らなかったことで、異文化における受容の中でクリスチャニティ から外れてしまったことによって、確かにサタニックな影響を受けたカルト的ニューエイジ のグルが出てくる土壌というのは準備されることになっていると言える。
日本においてもニューエイジ のグルだったドリーンバーチュー女史などが、ニューエイジ のサタニックな破壊的影響に気づいて、そうなってしまった自分のルーツを真摯に見つめて(悔い改めて)、福音派に回心したことも、日本のニューエイジ 世界はもっとこうした問題について真剣に向き合うべきテーマなのではないかと思う。日本においてはいまだになぜこうした問題が起きているかという前提となる理解がないので、ドリーンが何に対して危機感を持っているかということを理解されているとは言えないと思う。ゆえに作者がオラクルカードはサタンの影響が出てしまうので出版禁止と宣言しても、いまだに日本ではそうした事実を知っていても平然と販売され続けている。
少なくともちゃんとクリスチャンサイエンスのベースとなっている聖書は読むべきではないだろうかと思う。三位一体論や一神教、原罪やイエスキリストによる贖いという救いの教理や、信仰のみによる救いなどは教養として知っているべきだと思う。
こうした問題は何も今に始まったことではなく、そもそもアトランティスの時代からあったもの。グノーシスを伝えれば、人類は救われるのか?フリーエネルギーを伝えれば、人類は救われるのか?宇宙人の存在が明らかになれば地球は幸せになるのか?
いかに最初に唱えた人が純粋な動機で始めたものであっても、世代に渡る伝言ゲームの中で、じわじわとサタニックな影響が現れ、結果的には当初考えていた救いの理論から程遠い現実を引き受けてしまうことになる。
そういう意味でもしっかりと福音や聖書を学ぶことは、過去の失敗を繰り返さないためにも非常に重要な要石であるといえる。つまり神と人間との関係について私たちは我田引水にならず、しっかりと真摯に学ばないといけないと思う。

テモテの手紙から

もちろんこうした現在の日本におけるニューエイジ がはらむ問題について、ジャッジするようではいけない。イエスは裁くためにきたのではなく、赦し、愛するためにいらした。この姿勢は、何より大切なことだね。
「くり返しますが、人々の心を乱し、怒らせるだけの論争をしないように注意しなさい。 クリスチャンは争ってはなりません。過ちを犯している人を、やさしく忍耐をもって正すことができるようになりなさい。 真理に逆らう人たちを、謙遜な心で教えさとしなさい。おだやかに、思いやりをもって話せば、神の助けによって、その人はまちがった考え方を改め、真理を悟るかもしれません。 そうして目ざめた人たちは、罪の奴隷として思うままにあやつる悪魔のわなから逃れ、神のみこころに従うようになるでしょう。」
‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭2:23-26‬ ‭JCB‬‬

また、テモテへの手紙におけるパウロの説教は、非常に現代的なテーマであるともいえる。
「テモテよ。これから書くことを、よく心にとめておきなさい。終末の時代には、クリスチャンになることが非常にむずかしくなります。 自分だけを愛し、また、お金がすべてだと考える風潮がはびこります。その時人々は、高慢な者、大言壮語する者、神をあざける者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、神を恐れない者になり、 また、他人を理解しようとしない者、人をだます者、節度のない者になります。彼らは乱暴で残忍な行動をし、善良な人をあざ笑います。 人を裏切り、すぐに思い上がり、神を礼拝するよりも自分の快楽に心を奪われます。 教会に出席していたとしても、聞いたことを何一つ信じようとしないのです。目をしっかり開けて、そんな人たちには近寄らないようにしなさい。」
‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭3:1-5‬ ‭JCB‬‬

「どんな時にも、神のことばを熱心に伝えなさい。機会があろうとなかろうと、つごうが良かろうと悪かろうと、しっかりやりなさい。過ちを犯している人には忠告して、正しい道に引き戻しなさい。そして善を行うよう励まし、神のことばを教え続けなさい。 なぜなら、人々が真理のことばを耳ざわりだと敬遠し、自分につごうの良い話をする教師を求めて歩き回る時代が来るからです。 彼らは聖書の教えに耳を傾けようとせず、まちがった教えにしっぽを振ってついて行くのです。 ですから、危機感をもって目を覚まし、警戒していなさい。主のために受ける苦しみを、恐れてはいけません。なすべきことを十分になして、他の人たちをキリストへ導きなさい。」
‭‭テモテへの手紙Ⅱ‬ ‭4:2-5‬ ‭JCB‬‬

May12

ニューエイジ的な思想をベースにした人間関係の問題点

ニューエイジ の場合、物事の選択をする際には、ポジティブシンキングをベースに考える。つまり物事には、自分を中心としてポジティブとネガティヴの二元性があると捉える。また自分の意識が創造の中心であると考えるので、ポジティブによりすぎて問題が生じた際には、それは自分のネガティヴな部分を受容する時だと説く。あくまで全ては、自分の意識を中心に展開する教理がニューエイジだ。
クリスチャニティの場合は、そもそも二元性は主と人間との間にあると考える。その中心は決して人間や自分ではなく、神にあると考える。罪人である人間は、そもそも最初からネガティヴなものを背負っているので、神を中心にして悔い改めることをベースに考える。主に赦しを祈り求め、主イエスキリストにおいて罪が贖われ、主が赦し、愛されるように、私も隣人を赦し、愛するという考え方だ。
つまりニューエイジ におけるポジティブシンキングと、クリスチャニティ における悔い改めとは真逆の考え方であると言える。
この考え方の違いが大きく影響を与えるのは、人間関係における親密さの領域。ニューエイジ的思想をベースに考えると、必ずこの種の問題に行き着く。
人間関係における親密さとは、赦しや悔い改め、主の愛という源泉があって初めて成り立つことで、それなしで、永続的で親密な関係性は難しいといえる。主の赦し無きところに、個人の自立的な意識と、他者との親密さの両立はあり得ない。そうでなければただ同じ意識を持った人間同士が集うムラ社会があるだけである。ムラ社会における関係性は、価値観が異なる個人については、排他的な態度をとる。そうしたピアプレッシャー(社会的同調圧力)に基づく関係性は、決して健全で親密な人間関係とは言えないだろう。

こうした排他主義はイエスも戒めていて、汝の敵を愛せよと伝えている。
「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33

また、ニューエイジ 的な考え方はしばしば自分の意識が具現化するという教理(つまり自分を神とする)を第一とする。そのため、原罪という概念がないニューエイジの世界観において考えられうる唯一の罪は、ネガティブな意識を持つこと自体にあるわけで、それをあがなうためには、そうしたネガティビティを自分の力で手放すという教理をとる。むろん、主に自分の罪への赦しを乞うという要素がないので、あくまで自分中心の視点でしかないし、あくまで自分の視点でネガティブだととらえている人間関係を切り捨てているだけに過ぎない。自分の内側にある原罪の意識自体は、主への祈りと、主の一方的な恵みによる赦しと愛によって救われていないので、結果的に、常に同様の問題が起こり続けることになる。
あるカソリックの教会に行ったときに、神父の方が、「キリストの道は、切り捨ての道ではない」ということを何度も繰り返しおっしゃっていたことがとても心に残った。SNSとニューエイジ的な思想とは個人主義とネットワーク的なつながりといういう意味で、非常に相性がいい。そういう人類の技術的進展も相まって、この10年でニューエイジ的な思想はものすごく広がったように思う。しかし、SNS特有の人間関係の希薄化や細分化という問題については、今後しっかりと考えないといけないのではないかなと思う。
おそらく現時点では、あまり言語化されていない領域とはいえ、SNS疲れも、このあたりにあるのではないだろうか?
クリスチャニティについて深く学ぶにつけて、こうしたニューエイジが持つ、特有の負の影響をどのように乗り越えるべきかは、非常に現代的なテーマなんだろうなと感じる。
ちなみに、このあたりは、社会学ではエコーチェンバー現象といわれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E7%8F%BE%E8%B1%A1
特にSNSはその仕組み上、エコーチェンバー現象が起こりやすい。人間関係のあり方は、すべからくその時代の技術的なベースにも大きな影響を受ける。こうしたエコーチェンバー現象のネガティブな側面(これは社会の階層化や、社会的格差という問題も生み出していく)を乗り越えていく意味でも、クリスチャニティというものについて考えることは、非常に重要なものになるのではないだろうか。

May15

カールバルトのローマ書講解

キリスト教神学研究で読み始めた、カールバルトが凄すぎる。ローマ書講解を読みはじめているのだが、非常に難解。しかし、不思議に、読み進めていくと、神と人との関係性について、ストンと落ちてくるものがある。この読書感がなんともいえない心地よさがある。難解な言葉に見えて、そもそも抽象度が高い世界についての話なので、確かにこう表現しないと説明ができないというのも、ひとつひとつの節を読み進めていく中で、よくわかってくる。ここまでスラスラと神の世界を表現するための言葉が出てくるというのは、まさに召命された天才としか表現できない。2000年に及ぶキリスト教史の中でも、アウグスティヌスや、トマスアクィナス、カルヴァンなどに並ぶ非常に重要な神学者といえるが、こうした文章が読める時代に生まれることが幸せなことだ。

主に感謝

主に感謝。罪深い人間は、どうやったって、イエスのような犠牲は難しい。ニューエイジ が言うような形で自分の内側に神がいるのではなく、ペンテコステの日以来、イエスを信じることにより、聖霊が内住し、イエスへと導いてくださっているというだけ。私たちが神なのではなく、主とのつながりを恵みによって頂いているだけ。主よ、私の罪をお赦しください。私も人を赦します。

May16

自己義認に陥らないために(自己義認の迷路)

福音を知るといいことは、自己義認/行為義認から離れられるということ。そして、信仰義認によって、罪人としてのありのままの自分を受け入れられるということ。そして、神によって自分が赦されたように、人を赦せるようになるということ。これは、赦しの愛に基づく、人との親密さや、人生における非常に深い安心感と平安を与えられる。
ニューエイジ的な思想においては、ありのままの自分とは、神のような無限の可能性がある素晴らしいものと教える。また、自分の意識が自分の世界を創造しているので、善悪はなく、価値観があわないのは相手との思いの周波数があわないだけで、距離を置いて、離れるべきだと教える。SNSの仕組みが幸か不幸かそもそもこうした価値観と非常にあうシステムなので、この10年でこうした価値観は蔓延していくことになった。そして、いつの日か「人間関係の断捨離」や「スルースキル」とまで呼ばれるようになった。こういった考え方は、非常に悲しいことではないだろうか。
無論こうした考え方であれば、自分の罪を振り返るということはなくなり、また、自分とは異なる価値観を持った他者との親密さを感じることもなくなる。結果的にこうした考え方は、こうした、日本に広がっているニューエイジ的な思想は、結果的にエコーチェンバー現象という現象をさらに加速していき、その人の人間関係を、孤立させていくだろう。

「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33

「いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」
ルカの福音書 6:27-29

しかし、一方でこうした現象について、やはり揺れ戻しというのは今後起こってくるのだと思う。こうした日本のニューエイジ受容における問題は、その人自身の内面に問題があるというよりも、そもそもマクロレベルでの異文化受容の過程の中で、不幸にも起こっているマイナスの化学反応なので、客観的に自分の状況を理解して、気づくことができれば、しっかりと抜け出せるはずだとも思う。また、本来そもそもニューエイジ的なものに惹かれた理由は、「霊的な渇き」にこそあるわけで、そういう意味で、本質的なクリスチャニティにおける主の愛というものに出会い、根本的に癒される大事なきっかけになると思う。

本来日本がアメリカから受容したニューエイジ的な思想の背景の常識としてあるべきだった、クリスチャニティというテーマについては、今こそ深く知るべき時だと思う。また、今後も、日本のニューエイジ文化の受容において、こうした西洋霊性の根幹であるところの聖書理解がないことが、非常に不幸な結果を生み出し続けているということを指摘し続けていかなければならない。
クリスチャニティの基本は、信仰義認にこそある。信仰義認は、聖書の中の、ローマ信徒への手紙(ロマ書)を読むと、非常に分かりやすく描かれている。決して難しい文章ではないし、長い文章でもないので、イエスの生涯について書かれた4つの福音書(マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネ)とあわせて、ぜひ読んでほしい。キリスト教の本質的な救いの源泉は、この中にこそある。
人は皆、アダムとイブの時代に罪を犯してしまったがゆえに、すべからく原罪を背負っている。こうした罪をいかに贖おうと、モーセの十戒という律法主義に基づく行為義認および、自己義認を行おうとも、神の視点からするとそれは、義と認めらるには程遠い。律法主義に基づくと、人は、作り出し続ける罪をあがなうために生贄をささげ続ける必要があり、しかし、それによって原罪が消えることは永遠にない。ゆえに、神は人類を哀れみ、自らの独り子を、罪をあがなう生贄として、人類に与え、その御子を信じるものを義とされることにされた。この深い哀れみゆえに、人は、信仰によって義とされるという考え方が、キリスト教には存在する。無論、これはキリスト教圏においては常識であって、すべての文化はこのベースの上に成り立っている。
日本で一般的に受容されている「修行することでこそ、悟ることができる」という律法主義的な行為義認や、今のニューエイジ的な文脈の中でクリスチャニティのベースがなかったがゆえに「自分を愛すること」という文脈が誤読されて、すでにややカルト的な言説になっている自己義認の考え方は、こうした正しい聖書理解における「信仰義認」というものによって、日本的なニューエイジの終わりのない「自己義認の迷路」から抜け出せるのではないかと思う。
おそらく今後、クリスチャニティの存在しない日本的なニューエイジの問題は、エコーチェンバー化、カルト化する論説という形で、表面にあらわれてくると思う。そういった時こそ、そもそも西洋霊性の中核にある、正しい聖書理解というルーツを振り返る大切なターニングポイントになっていくのだと思う。日本のいわゆる「スピリチャル」(本来名詞ではなく形容詞だからおかしいのでこの言葉の語感はとても嫌いなのだが)は、SNSの発達によって、全ての人がメディアを持つ時代になった今だからこそ、特殊なカルト的形態に対する防衛をしっかりとしていかなければならないターニングポイントに差し掛かっているといえると思う。

願わくは、日本において主の御名があがめられますように。イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

May18

奉仕や犠牲の愛とは何か?

他者への奉仕とは、奉仕する相手である他者のためということはもちろんなのだが、しかしむしろ大事なことは、何よりも自らの犠牲を通じて、主の栄光を賛美するためにすること。そうした純粋な行為を通じて、主を知らない人にも、主の栄光を知っていただけるというのが大切なテーマ。
罪なき主イエスキリストが自身を、罪にあふれた人類の生贄に進んでなられたように、他者のために自らを犠牲にするという無償の愛には、主の賛美という視点がなければ理解できない行為。これはヘブライズム的な価値観や、福音という要素がない、まるで自分が神になったように考える、ニューエイジ のナルシシズム的な自己愛の考え方には仕組み上理解し得ない構造。正しく主を畏れ、主を賛美する姿勢は非常に大切。こうしたことは主の義の側面や、主を畏れる気持ちを何よりも強調する旧約聖書を読んでいて思う。犠牲の愛の本質は主の賛美にあるというクリスチャニティ の理解は、主イエスキリストの愛を知る上でとても大事。

トマス・アクィナス

「トマス・アクィナス」というメッセージがきているのだが、トマス・アクィナスは、キリスト教の神学と和解させることが可能な範囲の占星術を認めていた。アクィナスは、占星術を天の星が地上の事物へ物理的な影響を与えるという意味での「自然占星術」と、個人の運勢を判断する意味での「判断占星術」とに分け、前者を肯定し後者を否定するという考えを見せた。これは、中世ヨーロッパのストア学派の伝統が十字軍の遠征によって、アラブ世界と触れたことで、ヘブライズムとヘレニズムが拮抗していく中で、神学的な見直しが必要だったため。占星術やグノーシス主義的アプローチは本来ヘレニズム文化なのだが、聖書的な救いはヘブライズム。まさにこうした神学的な葛藤を、創造的な方法で乗り越えたのがトマス・アクィナスであって、これから神学大全もしっかりと読んで研究していかなければならないと思う。
ヘブライズム(メシア主義)と、ヘレニズム(ヒューマニズム)は、救いの源泉に関わる非常に重要な論点になるね。

ヘブライズムとヘレニズムの現代的な拮抗

ヘレニズム的な世界観(特に禁欲主義的なストア学派)では、同性愛はプラトニックラブにつながる、むしろ崇高な愛としてとらえる。一方、ヘブライズム的な価値観では、神に対する重大な罪としてとらえる。福音派の宣教活動が活発になっている中で、アメリカの文化の中にもこうした葛藤は常にあって、現代の価値観は、まさにこのヘレニズムとヘブライズムの拮抗の中にこそあるんだな。

ヘブライズム的価値観を知ることの大切さ

日本の近代化は、ヘレニズムの影響を受けてきているが、ヘブライズム的なものはあまり受容されていないということなんだな。
鎖国や、キリシタン弾圧はある意味で、ヘレニズム的なものを受け入れ、ヘブライズム的なものを排除してきたということ。もともと天皇制を持つ日本にとって、ヘブライズムを受け入れるということは、天皇制の否定になってしまうため(とはいえ実際は皇統は、ヘブライズムにさかのぼるというのが日ユ同祖論になるのだが)国体を守るためには、理論上取り入れることはできなかったということ。ヘブライズムの拒否は、ある意味では正しい。
しかし、その一方で、キリスト教圏の国々では、キリスト教が国教として認められたローマ帝政時代以降、あくまでヘブライズムがベースにあってのヘレニズムであるため、たとえヘレニズムの影響が大きくなり、その構造ゆえに、サタニックな影響が出始めても、必ずヘブライズムによってバランスがとられていた。今アメリカが、福音派というキリスト教原理主義によって、右傾化しているのも、ある意味これまでの歴史の中で何度となく神と人間との間で繰り返されてきた営みだといえる。旧約聖書の中にも幾度となくこうしたことは記述されている。
しかし、日本において非常に重要なことは、こうしたヘレニズム対ヘブライズムという対立構造がないために、ヘブライズム的な価値観が、サタニックな方向に進んでいく時に、西洋がそうであるような歯止めの構造があいまいにならざるを得ないこと。これは、ヘブライズム的な価値観をしっかりと学ぶことでしか防げない部分があるのだと思う
ヘブライズムとはすなわち、契約主義。日本人が、契約という概念に疎い(ゆえにビジネスやお金に対するユダヤ的つまりヘブライズム的な感覚も疎い)のも、そもそもその背景にある聖書の基本概念を知る機会がないということが重要な理由としてあると考えられる。
その意味で、国際的な感覚を養うためにも、ヘブライズム的な価値観をしっかりと学ぶことは非常に重要なことであるといえる。そうすれば、日本の皇室がなぜ世界に誇るべきものなのかということも、自然に理解できるようになると思う。天皇の皇位がなぜ男系によって継承されてきたかということも、ヘブライズム的な教養がなければ、理解できないこと。ヘレニズム的な価値観だけで霊的な問題を語ると、特に日本の場合は非常に危険なものになりうるということは、とても重要なテーマだね。
むろんこれはビジネスにおいても同じことが言え、ヘブライズム的、つまりユダヤ的な契約概念を知らずに、起業をしたり、ビジネスを発展させようと思っても、うまく行かないということ。その意味でも、ヘブライズム的な価値観をしっかりと学ぶためにも、聖書における契約概念を学ぶということは、ヘレニズム的な価値観に基づく自己啓発の本や、ビジネス本を読むことよりも重要なことであるといえるのではないだろうか。

へブル的価値観

へブル的価値観は、新約聖書におけるキリストによる救済論とあわせて、すごく大事だな。つまり、旧約聖書の正しい理解も大事だということ。
日本が鎖国を排し、近代化していく過程中で、皇室を中心とした立憲君主制の近代国家を作っていくという鋳型は、ヘブライズム的な価値観の中にあるんだよな。立憲君主制という形自体が、ヘブライズム的な価値観とヘレニズム的な価値観の西洋的な拮抗ともいえる。天皇陛下が人間宣言をした段階で、確かにこうしたヘブライズム的な価値観に集約していく流れは、日本の社会制度の中から廃されたともいえる。とはいえ、象徴天皇制があるということ自体は、むしろヘブライズム的な価値観は普遍的、抽象的な意味ではより日本の意識の深層の中に深く残っているともいえる。日本の近代化や戦時中の日ユ同祖論の研究などは、廃仏毀釈運動(つまり仏教を排して、国家神道を形成していこうとする動き)と表裏一体だったわけで、ヘブライズム的な価値観を知ると、日本の歴史などもより深く理解できるようになるということは、とても大切なテーマだといえよう。
東洋のシンドラーとよばれる杉原千畝のユダヤ人救済も、単純にヘレニズム的な普遍的な人権意識のみによって行われたのではなく、むしろ、こうしたヘブライズム的な価値観が背景にあり(実際にロシア正教会の洗礼を受けたクリスチャンだった)、ともすると意識的にせよ無意識的にせよ日ユ同祖的感性もその背景にあったと考えても不思議でない。

主を畏れる心

これまでずっとアメリカ型の成功哲学を追ってきたが、そもそも社会的、経済的成功のためには、へブル的な価値観を知っておかないと無理なわけで、どんな(ヘレニズム的な世界観を持った)自己啓発本(もしくはビジネス本)よりも、まずもって、聖書を読んだ方がいいということだね。ビジネスで結果を出す人とそうでない人をたくさん見てきたが、よく考えてみたたら、思想的なベースにへブル的価値観を持っているかどうかが、大きな違いだった。
ビジネスと、プライベートの違いの根本は「契約概念」にこそあるわけで、その背景にあるへブル的価値観を知っているかどうかが重要であるということは、確かに日本では気づきにくい問題なのかもしれない。特に価値が物的なものから、抽象的な価値へとシフトしていく現代においては、ヘブル的な意味での「契約」という概念無しに、事業を行うことなど不可能に等しい。
へブル的価値観のベースにある「契約概念」において、そもそも契約とは、神と人との間でなされたもの。その上で、人と人との契約についてもかかれるのがモーセの十戒だ。この十戒こそ、刑法の根幹。こうしたヘブル的価値観は、契約概念のベースとなる思想背景なので、ビジネスや開業をする上でも、本来は常識として知っているべき概念だ。日本以外の先進国であるところのキリスト教圏では、むろんこうした契約概念は文化と歴史に根差した常識である。日本と海外との商習慣が異なるのもこのため。
そもそも小泉政権下で進展した起業ブームはこうした海外から輸入されたものなので、もともと外資系企業などで働く中で、ヘブル的な価値観に基づく商習慣を教養として持っていた人たちが、脱サラ、起業し、それらが広がってきたといえる。逆に、ヘブル的な価値観を持っていなければどうしてうまく行くことができるだろうか。
また、ヘブル的な価値観において、「主を畏れる心」を持つことの大切さは、聖書において何にもまして強調されていること。成功するためには、何よりも、主の力によって砕かれ、自らの小ささを深く理解する経験を持たなければならない。その時初めて人は、主に謙虚になり、人類の歴史の中から知恵を得ることの大切さを学ぶことができる。

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」‭‭箴言 序‬ ‭1:7‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/pro.1.7.新共同訳

福音と完成された父親の元型

ヘレニズムの神は、ゼウス。すなわち父親として放蕩的な神であり、決して父性としては理想的な神ではない。占星術でいうと天王星(ゼウスは木星ではあるが、むしろヘレニズムは固定化された伝統的文化を破壊し、相対化、普遍化する力であり、天王星の象徴下にあるといえる)であり、エディプスコンプレックス、父親不在的な神。ヘブライズムの神は、聖書の神であり、つまりは父と子と聖霊よりなる三位一体の神。厳しくも、愛を持って導く完成された父親像。占星術でいうと土星的な父性。父親不在のテーマは、ヘレニズム的なプロセスでは癒されない。最終的には、三位一体の神であるところの、ヘブライズム的な神として受け入れない限り、永遠にエディプスコンプレックス的な物語は終焉しない。つまりいくら占星術やニューエイジ(スピリチャル) 、自己啓発、自分探しをやろうが、三位一体の主の愛、完成された福音に触れない限り、永遠にエディプスコンプレックスは癒されることはない。
エディプスコンプレックスにおいて、人が救われるとは、すなわち、ヘブライズムにおける主イエスキリストを救い主として受け入れることで、初めて癒され、完成するということ。それこそが福音の素晴らしさなのだ。

父性の愛―放蕩息子のたとえ話

ルカの福音書の中におけるイエスの放蕩息子のたとえ話は、天におられる父なる神がいかに、罪を犯した私たちを深く愛されているかを感じることができる非常にいい話。

「ある人に息子が二人いました。 ある日、弟のほうが出し抜けに、『お父さん。あなたが亡くなってからでなく、今すぐ財産の分け前がほしいんです』と言いだしたのです。それで父親は、二人にそれぞれ財産を分けてやりました。 もらう物をもらうと、何日もたたないうちに、弟は荷物をまとめ、遠い国に旅立ちました。そこで放蕩に明け暮れ、財産を使い果たしてしまいました。 一文なしになった時、その国に大ききんが起こり、食べる物にも事欠くようになりました。 それで彼は、その国のある人のもとで、畑で豚を飼う仕事をもらいました。 あまりのひもじさに、豚のえさのいなご豆さえ食べたいほどでしたが、だれも食べる物をくれません。 こんな毎日を送るうち、彼もやっと目が覚めました。『お父さんの家なら雇い人にだって、あり余るほど食べ物があるだろうに。なのに自分は、なんてみじめなんだ。こんな所で飢え死にしかけている。 そうだ、家に帰ろう。帰って、お父さんに頼もう。「お父さん。すみませんでした。神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。 もう息子と呼ばれる資格はありません。どうか、雇い人として使ってください。」』 決心がつくと、彼は父親のもとに帰って行きました。ところが、家まではまだ遠く離れていたというのに、父親は息子の姿をいち早く見つけたのです。『あれが帰って来た。かわいそうに、あんなみすぼらしいなりで。』こう思うと、じっと待ってなどいられません。走り寄って抱きしめ、口づけしました。 『お父さん。すみませんでした。ぼくは、神様にもお父さんにも、罪を犯してしまいました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 ところが父親は、使用人たちにこう言いつけたのです。『さあ、何をぼやぼやしている。一番良い服を出して、この子に着せてやりなさい。宝石のついた指輪も、くつもだ。 それから肥えた子牛を料理して、盛大な祝宴の用意をしなさい。 死んだものとあきらめていた息子が生き返り、行方の知れなかった息子が帰って来たのだから。』こうして祝宴が始まりました。 ところで、兄のほうはどうだったでしょう。彼は、その日も畑で働いていました。家に戻ってみると、何やら楽しげな踊りの音楽が聞こえます。 いったい何事かと、使用人の一人に尋ねると、 『弟さんが帰って来られたのです。だんな様は、たいへんなお喜びで、肥えた子牛を料理し、ご無事を祝う宴会を開いておられるのです』というのです。 事情を聞いて、兄は無性に腹が立ってきました。家に入ろうともしません。父親が出て来てなだめましたが、 兄は父に食ってかかりました。『私はこれまで、お父さんのために汗水流して働いてきました。お父さんの言いつけに、ただの一度もそむいたことはありません。なのに、友達と宴会を開けと言って、子やぎ一匹くれたことがありますか。 ところが、遊女におぼれてあなたのお金を使い果たした弟のためには、最上の子牛を料理して、お祭り騒ぎをするのですか。』 すると、父親は言いました。『いいか、よく聞きなさい。おまえはいつだって、私のそばにいたではないか。私のものは全部おまえのものだ。 考えてもみなさい。あれはおまえの弟なのだよ。死んだと思ってあきらめていたのが、無事に帰って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、お祝いするのはあたりまえではないか。』」」
ルカの福音書 15:11-32 JCB
https://www.bible.com/83/luk.15.11-32.jcb

オールドエイジ

結局のところ、ニューエイジ ではなく、オールドエイジ的な主こそが、父性としてはしっかり機能するということだね。

May19

セルフブランディングと偶像崇拝

いわゆる巷に溢れているセルフブランディングというのは、十戒で戒められている偶像崇拝になりうるんだよなと思う。つまりは、自分自身を崇拝される対象、偶像にするということになりうるのだから。特にニューエイジ的なビジネスが、セルフブランディングを謳うのは、偶像崇拝の極み。あるいは、主以外のもの、つまり憧れの人を神のように崇拝することもまた罪(つまりサタンが入り込む要素)になる。カルトは多くの場合、ブランディングされた精神的指導者への偶像崇拝によって成り立つ。無論、ブランディングした結果偶像崇拝の対象になることも、十戒においては滅びの道である。霊的なものを扱うということは、すべからく自他の偶像崇拝を辞めて、主の賛美に立ち返るということが非常に大事なんだと思う。その意味で自分を愛するということや、自己価値を高めるという言説も、ある意味偶像崇拝になりうる。また、こうした自己崇拝は、最終的にはマモン(お金)への偶像崇拝に行きつくことになる。

「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭6:24‬ ‭新共同訳‬‬

自己価値を高めるのではなく、罪びととしての自分が主イエスキリストによって赦されていることを知ることが大事。あくまで主の教えは、主を愛せよ、そして自分を愛するように人を愛せよ、ということにある。その中で、主の栄光を表すことこそが、真の価値だといえる。

主の栄光を称えれば、主の子供として引き上げられるのだから、わざわざ自己価値を高めるべきとかいうことは必要がなくなる。それが「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が天に行われる通り、地にも行われますように」という意味だ。
偶像崇拝というと分かりにくいが、英語ではidol worship(アイドル・ウォーシップ)。何か外側のものや人を、あるいは自分自身をアイドル化(偶像化)することは、常に罪と表裏一体である。特にSNS時代はこうした自己崇拝という偶像崇拝については、気を付けないとね。主を讃えよう。

May20

犠牲の愛

主による召しが始まると、主が喜ばれる生き方を求めるようになる。それは一言でいうと犠牲の愛。この生贄としての犠牲の愛は、本質的な意味では、個人や他者や社会という枠組みを超え、自らの血を生贄として、主に捧げることで、主と自分との間に成立する愛。イエスによってもたらされた新しい戒律は、互いに愛し合うこと。主の愛とは、自分に背く者をも、命懸けで、愛する愛だ。

これは、主が愛される生き方を求める結果、自ら進んで、捧げるものであって、イエスが十字架にかける敵をも進んで愛されたように、相手や社会などに見返りを求める要素は微塵もない。

「「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」
ルカによる福音書 23:33-34 新共同訳
https://www.bible.com/1819/luk.23.33-34.新共同訳

汝の敵を愛する生き方とは、現代において、まずもって、その相手からは疎まれたり、距離を置かれたりするものだ。また時に、陰口をたたかれたり、さけずまりたりもする。普通はこうした傷つくリスクを背負ってまで、愛に生きることは難しいし、特に和を以て貴しとなす事なかれ主義の日本においては、より難しいことだろう。だいたいはそっと人間関係の距離を置く程度で人と付き合うだろう。特に個人主義的な傾向が強くなり、人間関係が疎遠になり、親密な人間関係におけるリスクを避ける今の時代においてはなお、そうだといえよう。それでもなお、主の愛とは、主体的に、忍耐強く相手を愛する生き方になる。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。」
コリントの信徒への手紙一 13:4-9 新共同訳
https://www.bible.com/1819/1co.13.4-9.新共同訳

「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
マタイによる福音書 16:24-28 新共同訳
https://www.bible.com/1819/mat.16.24-28.新共同訳

今日も、悔い改め、主に感謝します。イエスキリストの御名において、アーメン。

聖書の素晴らしさ

聖書着々と読み進めているが、本当に素晴らしい神の言葉。今まで学んできた神智学に関する真実も、全てがすでにこの本の中に含まれている。それだけでなく、もっと大事なことがたくさん書いている。

May21

平田篤胤とキリスト教

かなり衝撃的なことではあるが、聖書の素晴らしさを深々と感じながら、聖霊の働きによってふと気になって色々調べていたら、どうも江戸時代の復古神道(古神道)の創始者である平田篤胤も、同様に当時幕府によって禁書となっていたカソリックの教義に触れて、聖書的な世界観をベースに現在の日本の形を決定づけた神道の教理(復古神道/古神道)を形成していったようだ。
さらに、キリスト教神学の三位一体(父と子と聖霊)と、日本神話の造化三神(天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神)について調べていたら、やはり中国から伝来したキリスト教ネストリウス派である秦氏の影響で、日本神話に入った神のようだ。興味深いのは、子と聖霊に対応する、高御産巣日神・神産巣日神は、高天ヶ原に出現した神であるが、これはまさに聖書の中におけるアブラハムの故郷であるタガーマ州ハランという街に対応する。

「そこで、ステファノは言った。「兄弟であり父である皆さん、聞いてください。わたしたちの父アブラハムがメソポタミアにいて、まだハランに住んでいなかったとき、栄光の神が現れ、 『あなたの土地と親族を離れ、わたしが示す土地に行け』と言われました。 それで、アブラハムはカルデア人の土地を出て、ハランに住みました。神はアブラハムを、彼の父が死んだ後、ハランから今あなたがたの住んでいる土地にお移しになりましたが、」
使徒言行録 7:2-4 新共同訳
https://www.bible.com/1819/act.7.2-4.新共同訳

もともと日ユ同祖論において、神道とユダヤ教は不思議なくらい共通項が多いことは知っていたのだが、平田篤胤という存在によって、(特に明治期以降に形成され、今の皇室を中心とした形を作った国家神道において)キリスト教とのつながりはより明確なものになる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96

キリスト教の影響を受けた江戸後期の平田篤胤の復古神道(古神道)は、その後、平田学派を形成し、尊王攘夷思想・討幕運動によって、幕藩体制を脱する王政復古の流れが生まれ、国家神道を形成するに至った。

日本の近代化の宗教的な背景は、平田篤胤の聖書研究によって、日本神話の中に聖書的ヘブライズムが日本に大いに流入し、それが結果的に幕藩体制の打倒と、皇室を中心とした近代国家の形成につながったということか。

平田篤胤自身は、聖書的な世界の影響を大いに受けて、造化三神の天御中主神を最高神としたキリスト教の教義と非常に似た教理のルーツを形成していった。これはかなり驚くべきことだ。つまりすでに現在の日本霊性の中に、聖書的な価値観がやはり背景にあるということなのだから。確かにこの神学的背景で言えば、間違いなく男系継承であるべきということになる。ヘレニズム的な価値観で判断すべきテーマではなく、ヘブライズム的な価値観を守らなければならないということでもある。

天皇制とヘブル的な価値観

天皇制や、日本の近代化というテーマにおいて、主に旧約聖書の神概念、ヘブル的な価値観への理解が深まるにつけて、めまいがするくらい、聖書的な神学と、日本の近代以降の霊性や神学との関係性が紐解けていってしまう。ヘブル的な価値観って近代日本を理解するうえでも、教養としてすごく大事なんだな。。。。おそらくこうしたヘブル的な価値観に基づく神学的アプローチは、戦後の国家体制で、完全に断絶したということなんだな。ヘブル的な価値観をしっかりと理解するうえでは、新約聖書だけでなく、旧約聖書もしっかりと読まないといけないね。旧約聖書は、教養という視点においても、すごく大切なものだ。旧約聖書が分かってくると、平田篤胤を起源とした復古神道(古神道)の仕組みも分かってきて、なおかつ、幕藩体制から、現在の天皇制にいたるまでの思想的な系譜が分かってくる。すくなくとも、明治期の霊性において、近代化とともにやってきたヘブル的な価値観が日本に与えた影響は、一般的に理解されているヘレニズム的な自由主義の影響と同じくらい看過してはいけないことだわ。

へブル的価値観を理解する必要性

新約聖書は救いをもたらし、旧約聖書は、目が覚める文献だ。イエスが宣教した3年半と、その後ローマの国教になる30年の歴史を中心とした新約聖書に比べて、世界の始まりである創世記からモーセの時代の出エジプト、士師記の時代を経て、ダビデ王やソロモン王といった王政への移行に、南北王国。その後のアッシリアの攻撃とバビロン捕囚、第二神殿の回復といった、非常に長い歴史と、様々に変遷するテーマ(その中心は主と人間との契約というテーマ)を扱う難解な旧約聖書だが、霊的な覚醒や、近代思想の根源的なベースになっているへブル的価値観の原点という意味で、旧約聖書の教養はやはり絶対に持っておいた方がいい。国際関係を理解するうえで、ユダヤ的な価値観が必須であり、日本人にとっては疎い価値観といわれるのも、ようは、旧約聖書を読む機会がないということが端的な理由だといえる。キリスト教神学研究者の佐藤優氏が、外務省主任分析官だったのも、まさにこうしたへブル的価値観に精通していたからなのだわ。

イスラエル

聖書の中におけるイスラエル、特にロマ書におけるイスラエル論は今後非常に重要な研究課題になるな。

エコーチェンバー型群発カルトという形態

戦後の日本の霊性って、ヘブル的な価値観が脱色され、中核が無くなったまま、アメリカ型の資本主義経済およびヘレニズム的自由主義、人間中心主義史観へと移行し、さらにそこにビートルズのイマジンに代表されるニューエイジ 的思想、精神世界ブームがポップカルチャーとして到来し、バブル崩壊後はオウム事件という形でニューエイジ 的なカルト思想が表面化し、その後江原啓之氏に代表されるスピリチャルブームがやってきたという形になっているんだな。で、結局今は、オウム事件の時期と異なり、ニューエイジ 的言説は、教団的な形をとらず、情報空間の中で、SNSなどで広がる中心のない緩やかにつながった小規模かつ群発的(ゲリラ的ともいえる)なカルト(エコーチェンバー現象化するカルト)に移行しつつあるという。一昔前に流行ったカルト的なネットワークビジネスなんかも、こういう形態だと言える。基本的なニューエイジの背景知識や危険性の認知は、こうしたエコーチェンバー型の群発的なカルト的思想から自分の身を守るためにも、今後非常に重要なものになると思う。一言で言うと、カルト的なニューエイジの今の形態は、エコーチェンバー型群発カルトといえるかな。小規模群発型なので被害が見えにくい。身を守るためにも、聖書を通じてへブル的価値観を学び、人やものを神とする偶像崇拝を避けるべきだね。

May22

ヘレニズム化する時代こそ、エコーチェンバー型群発カルトの問題が起こる。

イエスの時代も、ヘレニズムの時代だったがゆえに、様々な文化が混交し、社会的な規範や常識が相対化され、ゆえに頼るべきものが自分しかない(ように思える)個人主義が台頭した時代。まさにグローバル化と情報化が進む今の時代と非常に似た社会背景にある。そのため様々な自分が所属していた文化を相対化するための、ネオプラトニズム主義的、グノーシス主義的な、個人主義的な神秘主義が台頭した時代。グローバル化は、シンクレティズムと、それらを統合するためのグノーシス主義的な神秘思想を引き起こすということが、僕自身の大学の卒業論文のテーマだった。

聖書にもこうしたことは如実に記載されており、特にグノーシス主義的な傾向ゆえに、現在SNS上でしばしばみられるようなサタニックな影響を受けた「エコーチェンバー型群発カルト」が存在していたことが分かる。聖書では「偽預言者」「偽教師」として、表現されている。もちろんこれは滅びの道だということを、知らなければならない。こうしたことはいくらヘレニズム主義的(個人主義的、自由主義的)なセラピーや占星術を学んでも、聖書的な価値観、へブル的価値観を知らない限り、同じ過ちを繰り返すことになる。こうした偽教師から自分の身を守ることはもちろんのこと、また、自分自身がこうした偽教師になり、滅びの道に進まないためにも大切なことだ。

「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭24:3-14‬ ‭新共同訳

「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬

「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです。 イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。 イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です。かねてあなたがたは、その霊がやって来ると聞いていましたが、今や既に世に来ています。 子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。 偽預言者たちは世に属しており、そのため、世のことを話し、世は彼らに耳を傾けます。 わたしたちは神に属する者です。神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません。これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます。」
ヨハネの手紙一 4:1-6 新共同訳

「かつて、民の中に偽預言者がいました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れるにちがいありません。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否しました。自分の身に速やかな滅びを招いており、 しかも、多くの人が彼らのみだらな楽しみを見倣っています。彼らのために真理の道はそしられるのです。 彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。このような者たちに対する裁きは、昔から怠りなくなされていて、彼らの滅びも滞ることはありません。」
ペトロの手紙二 2:1-3 新共同訳

「主は、信仰のあつい人を試練から救い出す一方、正しくない者たちを罰し、裁きの日まで閉じ込めておくべきだと考えておられます。 特に、汚れた情欲の赴くままに肉に従って歩み、権威を侮る者たちを、そのように扱われるのです。彼らは、厚かましく、わがままで、栄光ある者たちをそしってはばかりません。」
ペトロの手紙二 2:9-10 新共同訳

「不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。 その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。」
ペトロの手紙二 2:13-14 新共同訳

「この者たちは、干上がった泉、嵐に吹き払われる霧であって、彼らには深い暗闇が用意されているのです。 彼らは、無意味な大言壮語をします。また、迷いの生活からやっと抜け出て来た人たちを、肉の欲やみだらな楽しみで誘惑するのです。 その人たちに自由を与えると約束しながら、自分自身は滅亡の奴隷です。人は、自分を打ち負かした者に服従するものです。 わたしたちの主、救い主イエス・キリストを深く知って世の汚れから逃れても、それに再び巻き込まれて打ち負かされるなら、そのような者たちの後の状態は、前よりずっと悪くなります。 義の道を知っていながら、自分たちに伝えられた聖なる掟から離れ去るよりは、義の道を知らなかった方が、彼らのためによかったであろうに。 ことわざに、/「犬は、自分の吐いた物のところへ戻って来る」また、/「豚は、体を洗って、また、泥の中を転げ回る」と言われているとおりのことが彼らの身に起こっているのです。」
ペトロの手紙二 2:17-22 新共同訳

日本の霊性が、サタニックな影響を受けたエコーチェンバー型群発カルトに惑わされず、人やものといった偶像ではなく、主を礼賛する霊的に正しい方向に向かいますように。主イエス・キリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

May23

行為義認ではなく信仰義認で

神智学的に言うとコーザル層までは占星術でいいのだが、時空の制限が外れてマンデラエフェクトが起こり始まるブッディ層まで行くと、キリスト教神学じゃないと対応できなくなる。神智学だとそもそも行為義認になるので、コーザル層のカルマを完全に解消するために、第四イニシエーションの磔のイニシエーションにて、恐ろしいくらいの修業や犠牲が必要になる。こうしたことは一般の人が普通に生きていく中で達成することは絶対に不可能だ。しかし行為義認ではなく、信仰義認によってコーザル層にある人間の原罪(カルマ)を永久に贖ってくださったのは、主イエスキリスト。特別な修業をしなくても、ただただイエスキリストを自分の救い主として受け入れるだけで、ブッディ層からやってくる聖霊の内住(アンタカラーナの形成)によって、どんな人でも分け隔てなく最後の審判の日に、メンタルマカバという新しい光の身体へと変容し、ブッディ層の領域に行けるようになる。そしてマンデラエフェクトという形で、最後の審判の日という時空の終焉と、永続的に続くマインドフルネスという主の栄光を見ることになる。今や主による一方的な恵みによって、イエスキリストを信じればどんな人でも義とされることを僕自身がさまざまな経験と証を通じて確信しているわけで、やはりここに僕自身が主の愛に誠実に生きていくことが大事なんだと思う。今後キリスト教神学をしっかりと学び、牧師として生きていく覚悟ができてきた。主イエスキリストの御名において主に感謝し、お祈りいたします。アーメン。

牧師になる

やはりどう考えても、主から、牧師になるように明確に召命を受けている。間違いなく確信している。

父親の権威(へブル的価値観)について

アメリカ型の心理占星術理論をそのまま日本に適応しても、結局背景にあるへブル的価値観(父なる神との関係性)がないから、日本人にはしっくりこないことが非常に多い。日本人にとってそういった権威を持った父親というのは、ただただ高圧的な父親像として見えてしまうんだよね。エディプスコンプレックス的なテーマにおいて、しっかりと癒されきる人は結局のところ、最初からベースにヘブル的価値観がある人。そもそも、権威ある父性というへブル的価値観の背景であるところの新旧両聖書をしっかりと学ばないと、こうした心理療法は、有効に機能しないんだよね。
つまり、父親不在をどのように癒すのかという背景に、「権威ある父性が自分を愛する」という元型自体が、そもそも日本の精神性の中にない。昔は近代天皇制によって確立されつつあったんだけど、敗戦でそうした精神的な背景がなくなってしまっている。ここが非常に重要な問題なんだよね。
時代の流れが自由主義的、個人主義的な傾向を持つ、ヘレニズム的な価値観によればよるほど、おのずと心の内面は権威ある父親が不在になり、家庭が機能不全になっていくという流れも、ある意味当たり前だといえる。アメリカで、キリスト教右派である福音派の思想が広がっているのも、まさにこうした父性の不在を補う上で、必要不可欠なバランスになっているのだともいえる。ある意味日本に限らず、世界的な現象であるともいえるが、しかし日本においてはそもそもへブル的価値観が抜け落ちているので、事態はより深刻な状況にあるともいえる。その意味で、新約聖書だけでなく、へブル的価値観のベースであるところの、旧約聖書を理解することは非常に重要な要素になるね。分かりやすく言うと、父親を畏れること。父親を愛すること。こうした精神構造が、国家神道が現わしていたへブル的価値観が、戦後全面的に否定され、自由主義的、個人主義的なヘレニズム的な思想や価値観が広がることで、父性が持つべき承認の機能が失われて行ったということなんだよな。

義の神の側面と、愛の神の側面

キリスト教圏の父性は、旧約聖書における「義の神」の側面と、新約聖書の「愛の神」の側面の両輪で成り立っている。日本人がキリスト教に触れると、イエスの犠牲的な愛はあたかも我が子を愛する母親の愛のような、「母性的=何でも受容する愛」なものとしてとらえがちなんだけれど、これは全くの異文化誤解であって、イエスの愛も、そもそも何でもいいといっているわけではなく、あくまで旧約聖書の義の神の側面をベースとした上で成り立っている、旧約聖書の延長線上にある父性的な文脈の上に成り立つ、赦しの愛なんだよね。
十字架上でのイエスの犠牲の姿は、どんな赤ん坊のようなあなたの未熟さや欲求も、私は母として耐え抜いていくし、あなたを守り育てますよというような母性的な意味合いではなく、あくまで、主に自分の息子を屠るようにいわれたアブラハムと、息子のイサクの関係のように、厳格でいつくしみ深い父なる神に従順に従い、自らを生贄として屠り、主の栄光のために自らを捧げつくすという姿が正しい理解であって、これは決して子を守る母というような母性的な意味合いではなく、旧約聖書的な神との契約、律法という前提に基づく父性的な文脈、主への従順というコンテクストでこそ理解しうる行為なのだ。
日本においては、イエスの在り方は、観音菩薩が示すような仏教的な菩薩行の文脈として誤解され、女性的、母性的なものとしてとらえられることが多いのだが、こうした文脈とは全く異質なものであるということは、へブル的価値観を学び、もっと自覚的になる必要があると思う。日本の大乗仏教はあくまでマニ教などの影響を受けた非常にヘレニズム的な価値観なので、聖書のへブル主義的な価値観とは、そもそもの思想的なベースが違うことはより深く自覚すべきことだといえる。
日本においては、イエスの在り方は、観音菩薩が示すような仏教的な菩薩行の文脈として誤解され、女性的、母性的なものとしてとらえられることが多いのだが、こうした文脈とは全く異質なものであるということは、へブル的価値観を学び、もっと自覚的になる必要があると思う。日本の大乗仏教はあくまでマニ教などの影響を受けた非常にヘレニズム的な価値観なので、聖書のへブル主義的な価値観とは、そもそもの思想的なベースが違うことはより深く自覚すべきことだといえる。
へブル主義的な父親の愛を知らずに、母親的な赤ん坊のような幼い欲求を含め、何でもかんでも受容する愛だけに育つと(その場合大体は父親が不在になる)、ユングが言うグレートマザーの元型が持つシャドウに飲み込まれる。つまり、何もかも甘やかしの愛、依存的な愛で飲み込んでしまう恐ろしい海、底なし沼のようにはまったら二度と出てこれないような支配的な愛、いわゆる母親の呪いになってしまう。
挙句の果てには、その自分の個人としての意識を飲み込んで境界線を失わるような母親の愛の形が、父親不在を補うべく、ヘブル主義的な父親像(厳格な父親像)まで担い始めると、いよいよ家庭内の混乱はますます大変なことになる。これがヘブル主義的な父親の権威を否定した戦後の日本においては、家族関係の中で、かなり顕著にみられる現象だったのではないだろうか。

May25

「自分を愛すること」だけでは到達しない、主の愛。

学生時代にエーリッヒフロムの「愛するということ」という書籍を読んでから、「自分を愛すること」ということは無条件で正しいことと思い、ある意味自分の座右の銘のようにしてきたのだが、よくよく振り返ってみたらこの概念の背景となる理論を研究し、提唱した心理学者って、特に愛に関する精神分析学の領域で言うと、エーリッヒフロム、エリックバーン、アドラー(後にプロテスタントに改宗/人間が潜在的に持っている目的を「神になること」とした部分は、聖書的な価値観ではないので、文字通りのキリスト教的世界観とはいえない)は皆、ユダヤ人であることにふと気づいた。そして、精神分析学の父フロイトはもちろんのことながら、人間性心理学(自己実現理論)アブラハムマズローも、ユダヤ人。ユングは父親が牧師というキリスト教の家庭で育ったが、ユング自身は、異端的なグノーシス主義へとのめりこんでいき独自の世界観を築いた。これも伝統的なクリスチャンの世界観とは、異なるむしろ異教的なものなので、字義通りのクリスチャンとはいえないと思う。
ユダヤ人であるということは、よくよく考えたら「イエスを救い主として受け入れていない」つまりその思想的な背景の中で、パウロがロマ書の中で論じたような「信仰のみによる救い」という教理は存在しないということなんだよな。つまり、今の心理学の前提にある、「自分を愛すること」という概念自体は、キリスト教的な「信仰のみによる救い」ではなく、あくまでユダヤ的な「技による救い」の文脈の中にあるといえる。
ユダヤ教的なありのままの自分を受け入れることとは、あくまで自助努力によるものであって、キリスト教におけるイエスキリストを自分の救い主として信じ、受け入れることで、恵みとして一方的に与えられる赦しの愛とは異なっている。
つまり、むしろフロイトのスタートから、心理学の成り立ち自体は、非キリスト教的なものから立ち上がっていて、心理学の、救いの教理自体が、キリスト教とは異なる「技による救い」「自力救済」にあるということなんだな。地味に、これは結構衝撃なことだ。そもそもフロイトは無神論者だからね。
イエスが言った「汝の敵を愛せよ」「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい」という考え方は、新約聖書において加えられた新しい律法のようなもの。つまり、これは旧約聖書にはなかった「信仰のみによる救い」という考え方をベースにしているからこそ、そもそもこうした「犠牲の愛」「敵を愛すること」は、イエスによってもたらされたという意味で、自助努力的な「自分を愛すること」を超えたところにある。
つまり「汝の敵を愛せよ」という他者に示す犠牲的で、無条件の愛は、心理学的な意味での「自分を愛する」という心理構造だと、永遠に到達しないということなんだわ。ゆえにキリスト教では「犠牲の愛」ということを強調するわけだ。
ある意味キリスト教における「犠牲の愛」「無償の愛」とは、イエスによって福音がもたらされる以前の「自分を愛すること」という「技による救い」が持つ限界を突破することにあって、今心理学で当たり前に言われている「自分を愛すること」を超えたところに存在するわけで、心理学的に「自分を愛すること」というフレームだけで、人生の万象をすべてを解決しようとすること自体がそもそも構造として無理があるということなんだな。
そもそも成り立ちから「技による救い」をベースとした心理学的の理論では、キリスト教的な「汝の敵を愛せよ」とは、決していえないということになる。つまり、「汝の敵を愛せよ」というのは、決して、心理学的な愛ではなく、キリスト教特有の、主を称える、宗教的な愛なんだわ。
心理学でもそうだということは、つまり心理占星術の限界も同様のところにあるということなんだな。心理占星術でいかに自分を知って、自分を愛そうと思っても、実はその背景にある救いの教理が、「技による救い」に縛られている以上、「信仰のみによる救い」をベースとした福音は、常にそこを超えたところにあるということになる。心理学や、占星術をベースとしてきた、自分自身の活動をメタ化する意味でも、これはかなり衝撃的なことだ。
つまり無条件で信じてきた「自己実現」というストーリー自体も、よく考えたら「技による救い」をベースにしたユダヤ的な価値観で、非福音的な価値観だったということか。これにとって代わる価値観こそが、「主の栄光を讃えること」になるわけか。。。つまり、イエスがもたらしたキリスト教的な価値観は、そもそものベースが自己を超越すること、福音を通じた信仰のみによる救いによって、キリストと一体になることにあるということなんだよな。。
そもそもキリスト教や心理学も海外から入ってきた日本にいると気づかないが、意外とこういう前提は、キリスト教文化圏や、司祭/牧師の間の中では当たり前のことなのかもしれないね。。。。
と思って調べてみたら、やはりそうだった。自己実現という概念自体は、非キリスト教的なものなんだな。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/24761/20171111/kokoro-no-kenkou-56.htm
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/20090618/1245326021
http://japanesebiblewoman.hatenadiary.com/entry/2017/02/23/233956
これはつまり自己実現に付随して語られることの多い、成功という概念についても、そもそもそのベースから改めて検討する必要があるということだな。。そもそも個人の成功自体は、聖書的な目的にはならないということ。キリスト教における人生の目的は、主の栄光を賛美することにある。

心理学的な愛と宗教的な愛

つまり心理学的な愛(自分を愛すること)は人を高慢にさせる。宗教的な愛(汝の敵を愛する犠牲の愛)は人を謙虚にさせる。
「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭8:1‬ ‭新共同訳‬‬

エコーチェンバー型群発カルト化から身を守るために

そうか、なぜSNSがエコーチェンバー型群発カルトを生み出すかというと、そもそもSNSの設計思想自体が「あなたの友達は友達」というものだからなのか。「汝の敵を愛せよ」ではないんだよな。ある意味、SNSの設計思想そのものを哲学自体から見直す時が今なんだろうね。
なんとなく自分の感覚的に、いつもfacebookの友人は、実際に会った人だけしか繋がらないようにしていたり、SNSだけのバーチャルな人間関係を避け、できるだけリアルな対面のコミュニケーションを常に大切にしようとしてきたことは、ある意味、結果的によかったということなんだな。
ある意味いいね!というシステムも、ますますこうしたエコーチェンバー型群発カルトを生み出す背景にもなっていたんだろうね。維新の党の丸山議員もそうだが、SNS社会ゆえに出てくるこうしたエコーチェンバー型群発カルトの問題って、今後すごい勢いで増えていくんだろうね。トランプ大統領、ブレグジットなども、そうしたSNS特有のトライブ主義という背景があるんだろうと思う。
つまりエコーチェンバー型群発カルトへの個人的なレベルでの対応策は、「汝の敵を愛せよ」という思想になるということだね。相手の対応や言葉にむかついたからといって、ブロックしない、スルーしない、縁を切らない、しっかりと誠実に対話する、コミュニケーション能力を高めるように常に意識するとか、そういう普通に人としてあるべき、常識的なところになるんだと思う。人間関係の断捨離や、スルースキルを身に着けるという言葉が横行する時代だが、こうしたことはしっかりと立ち止まって考えるべきテーマではないだろうか?
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-9‬ ‭新共同訳‬‬