May01

日本のニューエイジにおける「ありのままの自分を愛する」という誤謬

日本のニューエイジの文脈の中で、「ありのままの自分」を愛することが大切という考え方の中で、一つの重要な欠点は、聖書的世界の基礎知識がないことにある。
一般的に、日本人が契約という概念に疎いのも、そもそも旧約聖書の中において描かれる神と人間との間にある厳格な契約概念を知る機会がないからだ。
旧約聖書の世界において、神との契約(十戒)に背くということは、厳然たる罪であり、その罪をあがなうためには生贄が必要だという概念に基づいている。これは、神の義の側面が強調されている。
そして、神の愛の側面が強調された新約聖書も、あくまでこの義の神の上に成り立っている。新約聖書においては、人類を憐れんだ主の一方的な恵みの愛によって、人類の罪をあがなうために、何よりも大切な我が子を、人類の罪をあがなうために生贄にささげることに決める。
つまり、分かりやすく言うと、主は、自分に重大犯罪を犯した当の本人たちである人間の死刑判決という罪状を贖うために(人類の犯した罪は、原罪のために永遠の生命を失い、死を体験することになったという意味においても、まさに死刑に値する罪であったといえる。)、自分何ものより愛する子供を、生贄にささげることことになさったということ。この途方もない主の愛の姿が、キリスト教における神の愛の側面なのだ。
自分の子供を、自分に重大な罪を犯した犯人のために、愛する我が子を生贄にささげることでその犯人のすべてを赦す愛を考えてみてほしい。しかも、犯人は自分の罪の重大さを自覚せず、ともすると反省せず、そのままのうのうと人生を生き、死ぬまで罪を犯し続けるかもしれない。それでも、その人に救われてほしいと願い、忍耐強く、最後の審判の日まで待つことにすると決めた。主の愛は、そのような自分の感情に寄らない、主体的で、無償と犠牲の愛なのだ。イエスが語られた愛とは、この主の愛のように、互いを赦しあいなさい、敵を愛しなさいというメッセージが含まれている。それゆえ、「自らの罪を悔い改めなさい」と告げたのだ。
そして、主のこうした哀れみの愛に基づいて、自らが人類のために生贄になることを、イエス様は、進んで引き受け、そして、その御技は2000年前に十字架の犠牲と3日後の復活(死の超越)によって完成した。人類というと非常に壮大に聞こえるが、つまりは、2000年後の自分自身のために、神は自分の御子を生贄にささげられたということを感じると、いかにそれが自分自身にとって重大なことなのかを実感できると思う。
つまり「ありのままの自分」を愛するのは、私自身ではなく、主であるというという厳然とした前提条件が、日本のニューエイジ的な考え方には、すっぽりと抜けてしまっているのだ。