May01

「自分を愛する」が単なるナルシシズムにならないために

日本には先に述べたような原罪とイエスキリストの十字架における贖いという概念がないため、ただのナルシシズムに陥ってしまうことが非常に多い。特にSNSが発達してからは、発信のハードルが下がり、多くの人が日本的ニューエイジの考え方を伝言ゲームのように発信するようにために、そのプロセスの中で、だんだんサタン的影響が強くなり、悪をもたらすナルシシズムのような危険な考え方が、広がっている側面がある。
そもそも、自分を罪人として、受け入れ、その上でイエスキリストへの十字架での犠牲と復活への信仰を通じて、主の愛を感じ、聖霊の働きによって、初めてその罪があがなわれた実感を得られる。
しかし、日本的な福音なきニューエイジにおいては、そもそも罪の意識をないものとして抑圧する。もしくは仏教的、神道的なものの延長線上にある瞑想、パワースポットやお守り、エネルギーワーク、パワーストーンなどの「技による救い」によって、ネガティブなカルマや潜在意識の中のマイナスの脚本を解消し、自力救済していこうとする。むろん技による救いはあくまで個人救済の枠組みを超えないので、技による救いには限界があるし、むろん集団的救済論にはなりえないということだ。むしろ十戒で禁止されている偶像崇拝がそこにはあるわけで、これはサタンがつけいる余地が常にあるということ。そもそもニューエイジ特有のライト感覚な技による救いで、救われるわけもない。
いうなれば死刑判決を宣告された人が、一縷(いちる)の望みをかけて、刑務所の中で罪をあがなおうとまじめに模範囚になろうとする、もしくは脱獄を計るようなもので、これは主の一方的な愛によって、恩赦を受け、罪から放免されることと、全く持ってベースとなる救いの教理が違うのだ。
主の一方的な恵みによる赦しの愛、福音、イエスキリストの存在を信じないで、ありのままの自分を受け入れ、赦すということは、そもそも構造として無理があるのだ。救いというのは、自分が自分を赦すことの中にあるのではなく、あくまで主が自分を赦すという一方的な恵みによる愛がベースにあるのだ。