May12

ニューエイジ的な思想をベースにした人間関係の問題点

ニューエイジ の場合、物事の選択をする際には、ポジティブシンキングをベースに考える。つまり物事には、自分を中心としてポジティブとネガティヴの二元性があると捉える。また自分の意識が創造の中心であると考えるので、ポジティブによりすぎて問題が生じた際には、それは自分のネガティヴな部分を受容する時だと説く。あくまで全ては、自分の意識を中心に展開する教理がニューエイジだ。
クリスチャニティの場合は、そもそも二元性は主と人間との間にあると考える。その中心は決して人間や自分ではなく、神にあると考える。罪人である人間は、そもそも最初からネガティヴなものを背負っているので、神を中心にして悔い改めることをベースに考える。主に赦しを祈り求め、主イエスキリストにおいて罪が贖われ、主が赦し、愛されるように、私も隣人を赦し、愛するという考え方だ。
つまりニューエイジ におけるポジティブシンキングと、クリスチャニティ における悔い改めとは真逆の考え方であると言える。
この考え方の違いが大きく影響を与えるのは、人間関係における親密さの領域。ニューエイジ的思想をベースに考えると、必ずこの種の問題に行き着く。
人間関係における親密さとは、赦しや悔い改め、主の愛という源泉があって初めて成り立つことで、それなしで、永続的で親密な関係性は難しいといえる。主の赦し無きところに、個人の自立的な意識と、他者との親密さの両立はあり得ない。そうでなければただ同じ意識を持った人間同士が集うムラ社会があるだけである。ムラ社会における関係性は、価値観が異なる個人については、排他的な態度をとる。そうしたピアプレッシャー(社会的同調圧力)に基づく関係性は、決して健全で親密な人間関係とは言えないだろう。

こうした排他主義はイエスも戒めていて、汝の敵を愛せよと伝えている。
「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33

また、ニューエイジ 的な考え方はしばしば自分の意識が具現化するという教理(つまり自分を神とする)を第一とする。そのため、原罪という概念がないニューエイジの世界観において考えられうる唯一の罪は、ネガティブな意識を持つこと自体にあるわけで、それをあがなうためには、そうしたネガティビティを自分の力で手放すという教理をとる。むろん、主に自分の罪への赦しを乞うという要素がないので、あくまで自分中心の視点でしかないし、あくまで自分の視点でネガティブだととらえている人間関係を切り捨てているだけに過ぎない。自分の内側にある原罪の意識自体は、主への祈りと、主の一方的な恵みによる赦しと愛によって救われていないので、結果的に、常に同様の問題が起こり続けることになる。
あるカソリックの教会に行ったときに、神父の方が、「キリストの道は、切り捨ての道ではない」ということを何度も繰り返しおっしゃっていたことがとても心に残った。SNSとニューエイジ的な思想とは個人主義とネットワーク的なつながりといういう意味で、非常に相性がいい。そういう人類の技術的進展も相まって、この10年でニューエイジ的な思想はものすごく広がったように思う。しかし、SNS特有の人間関係の希薄化や細分化という問題については、今後しっかりと考えないといけないのではないかなと思う。
おそらく現時点では、あまり言語化されていない領域とはいえ、SNS疲れも、このあたりにあるのではないだろうか?
クリスチャニティについて深く学ぶにつけて、こうしたニューエイジが持つ、特有の負の影響をどのように乗り越えるべきかは、非常に現代的なテーマなんだろうなと感じる。
ちなみに、このあたりは、社会学ではエコーチェンバー現象といわれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%BC%E7%8F%BE%E8%B1%A1
特にSNSはその仕組み上、エコーチェンバー現象が起こりやすい。人間関係のあり方は、すべからくその時代の技術的なベースにも大きな影響を受ける。こうしたエコーチェンバー現象のネガティブな側面(これは社会の階層化や、社会的格差という問題も生み出していく)を乗り越えていく意味でも、クリスチャニティというものについて考えることは、非常に重要なものになるのではないだろうか。