May16

自己義認に陥らないために(自己義認の迷路)

福音を知るといいことは、自己義認/行為義認から離れられるということ。そして、信仰義認によって、罪人としてのありのままの自分を受け入れられるということ。そして、神によって自分が赦されたように、人を赦せるようになるということ。これは、赦しの愛に基づく、人との親密さや、人生における非常に深い安心感と平安を与えられる。
ニューエイジ的な思想においては、ありのままの自分とは、神のような無限の可能性がある素晴らしいものと教える。また、自分の意識が自分の世界を創造しているので、善悪はなく、価値観があわないのは相手との思いの周波数があわないだけで、距離を置いて、離れるべきだと教える。SNSの仕組みが幸か不幸かそもそもこうした価値観と非常にあうシステムなので、この10年でこうした価値観は蔓延していくことになった。そして、いつの日か「人間関係の断捨離」や「スルースキル」とまで呼ばれるようになった。こういった考え方は、非常に悲しいことではないだろうか。
無論こうした考え方であれば、自分の罪を振り返るということはなくなり、また、自分とは異なる価値観を持った他者との親密さを感じることもなくなる。結果的にこうした考え方は、こうした、日本に広がっているニューエイジ的な思想は、結果的にエコーチェンバー現象という現象をさらに加速していき、その人の人間関係を、孤立させていくだろう。

「自分を愛してくれる人だけを愛したところで、ほめられたことでも何でもありません。神を知らない人でさえ、それぐらいのことはします。 よくしてくれる人にだけよくしたところで、何の意味があるのでしょう。罪人でさえ、それぐらいのことはします。」
ルカの福音書 6:32-33

「いいですか、よく聞きなさい。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者によくしてあげなさい。 あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者に神の祝福を祈り求めなさい。 もしだれかが頬をなぐったら、もう一方の頬もなぐらせなさい。」
ルカの福音書 6:27-29

しかし、一方でこうした現象について、やはり揺れ戻しというのは今後起こってくるのだと思う。こうした日本のニューエイジ受容における問題は、その人自身の内面に問題があるというよりも、そもそもマクロレベルでの異文化受容の過程の中で、不幸にも起こっているマイナスの化学反応なので、客観的に自分の状況を理解して、気づくことができれば、しっかりと抜け出せるはずだとも思う。また、本来そもそもニューエイジ的なものに惹かれた理由は、「霊的な渇き」にこそあるわけで、そういう意味で、本質的なクリスチャニティにおける主の愛というものに出会い、根本的に癒される大事なきっかけになると思う。

本来日本がアメリカから受容したニューエイジ的な思想の背景の常識としてあるべきだった、クリスチャニティというテーマについては、今こそ深く知るべき時だと思う。また、今後も、日本のニューエイジ文化の受容において、こうした西洋霊性の根幹であるところの聖書理解がないことが、非常に不幸な結果を生み出し続けているということを指摘し続けていかなければならない。
クリスチャニティの基本は、信仰義認にこそある。信仰義認は、聖書の中の、ローマ信徒への手紙(ロマ書)を読むと、非常に分かりやすく描かれている。決して難しい文章ではないし、長い文章でもないので、イエスの生涯について書かれた4つの福音書(マタイ/マルコ/ルカ/ヨハネ)とあわせて、ぜひ読んでほしい。キリスト教の本質的な救いの源泉は、この中にこそある。
人は皆、アダムとイブの時代に罪を犯してしまったがゆえに、すべからく原罪を背負っている。こうした罪をいかに贖おうと、モーセの十戒という律法主義に基づく行為義認および、自己義認を行おうとも、神の視点からするとそれは、義と認めらるには程遠い。律法主義に基づくと、人は、作り出し続ける罪をあがなうために生贄をささげ続ける必要があり、しかし、それによって原罪が消えることは永遠にない。ゆえに、神は人類を哀れみ、自らの独り子を、罪をあがなう生贄として、人類に与え、その御子を信じるものを義とされることにされた。この深い哀れみゆえに、人は、信仰によって義とされるという考え方が、キリスト教には存在する。無論、これはキリスト教圏においては常識であって、すべての文化はこのベースの上に成り立っている。
日本で一般的に受容されている「修行することでこそ、悟ることができる」という律法主義的な行為義認や、今のニューエイジ的な文脈の中でクリスチャニティのベースがなかったがゆえに「自分を愛すること」という文脈が誤読されて、すでにややカルト的な言説になっている自己義認の考え方は、こうした正しい聖書理解における「信仰義認」というものによって、日本的なニューエイジの終わりのない「自己義認の迷路」から抜け出せるのではないかと思う。
おそらく今後、クリスチャニティの存在しない日本的なニューエイジの問題は、エコーチェンバー化、カルト化する論説という形で、表面にあらわれてくると思う。そういった時こそ、そもそも西洋霊性の中核にある、正しい聖書理解というルーツを振り返る大切なターニングポイントになっていくのだと思う。日本のいわゆる「スピリチャル」(本来名詞ではなく形容詞だからおかしいのでこの言葉の語感はとても嫌いなのだが)は、SNSの発達によって、全ての人がメディアを持つ時代になった今だからこそ、特殊なカルト的形態に対する防衛をしっかりとしていかなければならないターニングポイントに差し掛かっているといえると思う。

願わくは、日本において主の御名があがめられますように。イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。