May23

義の神の側面と、愛の神の側面

キリスト教圏の父性は、旧約聖書における「義の神」の側面と、新約聖書の「愛の神」の側面の両輪で成り立っている。日本人がキリスト教に触れると、イエスの犠牲的な愛はあたかも我が子を愛する母親の愛のような、「母性的=何でも受容する愛」なものとしてとらえがちなんだけれど、これは全くの異文化誤解であって、イエスの愛も、そもそも何でもいいといっているわけではなく、あくまで旧約聖書の義の神の側面をベースとした上で成り立っている、旧約聖書の延長線上にある父性的な文脈の上に成り立つ、赦しの愛なんだよね。
十字架上でのイエスの犠牲の姿は、どんな赤ん坊のようなあなたの未熟さや欲求も、私は母として耐え抜いていくし、あなたを守り育てますよというような母性的な意味合いではなく、あくまで、主に自分の息子を屠るようにいわれたアブラハムと、息子のイサクの関係のように、厳格でいつくしみ深い父なる神に従順に従い、自らを生贄として屠り、主の栄光のために自らを捧げつくすという姿が正しい理解であって、これは決して子を守る母というような母性的な意味合いではなく、旧約聖書的な神との契約、律法という前提に基づく父性的な文脈、主への従順というコンテクストでこそ理解しうる行為なのだ。
日本においては、イエスの在り方は、観音菩薩が示すような仏教的な菩薩行の文脈として誤解され、女性的、母性的なものとしてとらえられることが多いのだが、こうした文脈とは全く異質なものであるということは、へブル的価値観を学び、もっと自覚的になる必要があると思う。日本の大乗仏教はあくまでマニ教などの影響を受けた非常にヘレニズム的な価値観なので、聖書のへブル主義的な価値観とは、そもそもの思想的なベースが違うことはより深く自覚すべきことだといえる。
日本においては、イエスの在り方は、観音菩薩が示すような仏教的な菩薩行の文脈として誤解され、女性的、母性的なものとしてとらえられることが多いのだが、こうした文脈とは全く異質なものであるということは、へブル的価値観を学び、もっと自覚的になる必要があると思う。日本の大乗仏教はあくまでマニ教などの影響を受けた非常にヘレニズム的な価値観なので、聖書のへブル主義的な価値観とは、そもそもの思想的なベースが違うことはより深く自覚すべきことだといえる。
へブル主義的な父親の愛を知らずに、母親的な赤ん坊のような幼い欲求を含め、何でもかんでも受容する愛だけに育つと(その場合大体は父親が不在になる)、ユングが言うグレートマザーの元型が持つシャドウに飲み込まれる。つまり、何もかも甘やかしの愛、依存的な愛で飲み込んでしまう恐ろしい海、底なし沼のようにはまったら二度と出てこれないような支配的な愛、いわゆる母親の呪いになってしまう。
挙句の果てには、その自分の個人としての意識を飲み込んで境界線を失わるような母親の愛の形が、父親不在を補うべく、ヘブル主義的な父親像(厳格な父親像)まで担い始めると、いよいよ家庭内の混乱はますます大変なことになる。これがヘブル主義的な父親の権威を否定した戦後の日本においては、家族関係の中で、かなり顕著にみられる現象だったのではないだろうか。