May30

霊的な堕落

今のスピリチャリティに関する言説を見ていると、この数年SNSがエコーチェンバーしていくにしたがって、人格主義に基づかない浮ついた内容が多いように思う。ある意味、これは91年のバブルの崩壊以前の状況と似ていて、異常な熱狂と根拠のない発展は、必ずどこかで破たんが来る。こうした異様なバブル現象は、霊的な価値基準における「原則」を見失ってしまっていることからくる、霊的な堕落にあると思う。こうしたバブル現象になっている一番のコアになっている信条・思想が、「自分を愛すること」という考え方。この考え方は、他者や社会への興味の喪失という形で現れ、ある意味何の吟味も加えられることなく、完全にバブルと化して、人としてあるべき良心をむしばみ始めているように思う。
SNSのコアにある設計思想は、「友達の友達は、友達」という思想と、「承認と所属、自己実現の欲求」という個人のニーズを満たすことにある。個人主義とはヒューマニズムであって、人間中心主義だ。あくまでこうした心理学的な欲求は、個人主義的な思想が背景にあるために、「主との関係」という霊的な原則が見えてこない。また、「友達の友達は、友達」という概念によって実装される機能は、むしろエコーチェンバーを加速させ、キリスト教における「汝の敵を愛せよ」というテーゼを忘れさせてしまう。
僕自身が、ニューエイジ的な文脈を離れて、イエスキリストを自分の救い主として信じるものである(キリスト者)であるという信仰告白をして、キリスト教徒として完全に回心したのも、確実にこうした日本に充満している霊的な堕落に、最近とても心を痛めているからであって、正しい方向に向かってほしいと願っているからだ。
根っこのないバブル現象は常に崩壊するし、聖書の世界でも、主の原則に従わなかった民は常に罰を受けるという歴史に学ばないとけないのではないだろうか? オウム事件の時代とは異なり、エコーチェンバー化は、より小規模群発的なものになっているので、こうした霊的堕落からくる被害も見えにくいし、また自分自身も被害者になるだけでなく、むしろ、その加害者になっていってしまうことも多いと思う。
旧約聖書の12の小預言書などでも、常にこうした霊的な堕落の時代に、主は預言者を通じて警鐘を鳴らしている。日本の霊性がオウム事件の時のように取り返しのつかない事態になる以前に、まずは主との関係性の中において、自分自身の身の在り方をしっかりと振り返り、改めていかないといけないと思う。
旧約聖書の、士師記の時代もまさにこのような時代。「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」‭‭(士師記‬ ‭17章6節)時代であり、霊的に堕落し、社会全体が混沌とした、まとまりのない暗黒時代に入っていった。自分の目に映るものをベースに自分の視点で自己義認するのではなく、主が喜ばれる生き方とは何かという視点に立って、信仰によって義とする生き方が大切だ。このことは、歴史や霊的真実に学ばなければならないと思う。信仰の核がないまま、安易にスピリチャルブーム、ニューエイジムーブメントに乗るのは非常に危険だ。主への信仰を持たずに、「自分を愛する」という思想に走ることは、エコーチェンバー化する今の時代においてはむしろ自分の目を曇らせる非常に危険な思想になりうる。エコーチェンバー化する時代こそ、霊的なものに携わるのならば、「主を愛し」「汝の敵を愛せよ」という原則を心の中心に置くべきではないだろうか。でなければ、自分ばかりでなく周囲の人も巻き込んで、身を亡ぼすことになってしまうと思う。
主イエスキリストの御名において、お祈りいたします。アーメン。