May30

福音は、一度きりの死と再生である。

イエスキリストを救い主として受け入れるということは、
自らは肉において罪に対して死に、霊において義に対して生まれ変わること。
そして、永遠の生命に生きるということになる。
つまり一度きりの死と再生である。

現代社会は幾度となく、自分の常識や囚われを、破壊するように仕向ける。
高度な情報化が進む時代においては、
まさに毎日変化し、成長し続けていかなければならない。
今は古い思い出ともいえる平成初期の「自分探しブーム」の背景にある、こうした死と再生の営みの延長線上に、いまだ終わりはなく、答えは出ない。
なぜ答えが出ないのか?それは、「自分の中にこそ答えがある」というギリシャ的、
あるいはより正確にいうとグノーシス主義的な思想に基づくからだ。

聖書的な世界において、私たちの本質は、
「罪の奴隷である」ということにあるという、非常に明確な「答え」を持つ。
これがヘレニズム的ヒューマニズムにはない、へブル的な世界観の基礎になるもの。
そして、これを受け入れたうえで、初めて
主の恵みによる救いがもたらされる。
自らの主人が、イエスの十字架の贖いと、3日後の復活を信じることで、
罪から、義へと移り、義によって買い取られるのだ。

西洋占星術を含め、現代のニューエイジ的な神話において、
特に、自己啓発的な文脈においては、
特にこの「死と再生」という元型はよく使われる。
ハデス、冥王星、サタンリターン、塔のカードなど、
何かあればすぐにこの「死と再生」をつかさどるとされる偶像的な神(この世の神)を持ち出し、
主に立ち向かっているとも知らず、自らを奮い立たせようとする。非常に忙しい思想だ。

聖書的な理解で言うと、死と再生とは一度きりである。
それは、イエスキリストを救い主として受け入れることで、
イエスキリストとともに肉によって死に、
イエスキリストとともに霊によって生きることになるということ。

洗礼(バプテスマ)もまさに、この一度きりの
死と再生を意味し、その時から私たちは
罪という主人の奴隷から解放され、
新しい義という主人の奴隷となることを示す。

人は罪の意識ゆえに自らを破壊する。
しかし、義は人を永遠に生きさせる。

福音によって、永遠の生命を生き始めるということは、
あわただしい現代において、非常に大切なことであるといえる。

昇天の日。イエスキリストの御名においてお祈りします。
アーメン。