Jun01

主を愛すること

昨今のスピリチャリティや心理学、自己啓発についての論説を見ていると、何の吟味もせず、「在り方=自分を愛すること」という話ばかりで非常にうんざりする。おそらくアドラーや、エーリッヒフロムの影響を受けた論説が、SNSの伝言ゲームのなかで、どんどん本来の形から離れていってしまって生まれた論説。
自分を愛するということをベースとなる心理学的な原書を読んで吟味しているのだろうか?浅はかな伝言ゲームに踊らされていないだろうか。あるいは自らそうやって伝言ゲームの一人として、伝えていないだろうか。
自分を愛するという論説は、ともすると、単に自分で自分を良しとする、ただの「自己義認」という大きな罪になりうることを知らないといけない。
聖書を学べばすぐにわかることだが、自己義認の姿勢は必ずといっていいほどその人を破滅に追いやる。
特に現代においては、3つの破綻においやっていく。経済的破綻、人間関係の破綻、道徳的な破綻だ。こうした霊的な危機に陥っている人が、なお、これは「自分を愛することが足りないんだ」という間違った信念で、どんどん深みにはまっていき、さらに周囲にも被害は拡大していくということが今起きているのだと思う。とても悲しいことだ。最悪の事態になる前に、一歩立ち止まって考えてほしい。謙虚な気持ちで、自分の自己義認の過ちを悔い改めてほしい。
セラピストとして一番大事なことは、キリスト教精神のように、人を無償に愛せるようになること。自分が笑顔になることでもなく、自分が心地よい気分になるのではなく、主の愛の視点で考えることが大事。主の思いに沿っているのだろうか?どれだけ相手に献身できているだろうか?と問い直すことが大事。人を無償で愛せなくて、どうしてセラピストになれるのだろう?本当に、不思議で仕方がない。
無償の愛の背景には献身があり、献身とはつまり、キリスト教精神に基づいて、主が自分の人生の主体であることを明確にする行為だ。その上で、イエスキリストに少しでも近づこうと、義の奴隷として自らの人格を磨き、人を愛すること。これが、人格の陶冶だといえる。すべてのベースには、主への信仰がある。
「在り方=人格主義」だという当たり前のことを本当に強調しないといけないと思う。
献身の心をもって社会的なリーダーになっていくには、主への信仰心を持ち、人格を磨くしかない。そして、人格を磨くには、いかに見えないところで、日々祈り、人や社会に献身するかではないだろうか。
主は、聖書の言葉の中で、自らの人格を育てることを一番大事にしていらっしゃる。そのためには非常に厳しいことも求められる。人格の土台ができていないのに、霊性を扱うことは、まだ何も知らない子供に刃物を持たせて遊ばせるようなもの。
僕自身も、これまでの活動の中で、「他者を無償で愛せる人を育成する」ということを軸にしてきたつもりだったのだが、結果的にこうした日本の霊性に誤った文脈を作る原因を作る一人の主体だったということは、本当に悔い改めないといけないと思う。最近は、そもそも前提としてセラピストや占い師を育てるという焦点そのものが間違えていたことがよく分かってきた。大事なことは、「人を育てること」なんだなと。心理学や占星術といった「技術」では、人格は育たない。キリスト教精神というベースとなる人としてどうあるべきかという思想に基づかないと、「人は育たない」ということがよく分かってきた。
そういう意味でも自分自身の長年の罪を深く悔い改めて、キリスト者として、霊的に正しいメッセージを伝えていきたいと思う。
天におられる父よ、日本の自己義認に基づく誤った霊性を、信仰義認という正しい方向性へと導いてくださいますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。

Jun02

成就した仏の教えとしての、キリスト教。外的召命時代から、内的召命時代への過渡期となる今。

イエスキリストを救い主として受け入れることで、肉において罪(仏教でいうところのカルマ)は死に、罪の奴隷から解放されて、霊において義に復活し、永遠の生命を生き始めるので、結局、輪廻転成はしなくなるんだよね。つまり仏教的にいうとイエスキリストを信じた段階で、聖霊が内住し、輪廻転成から解脱する。つまり仏教的にいうと悟りが始まる。キリスト教の影響を受けて成立した浄土宗や浄土真宗も基本的に同じ思想なのだが、聖書に基づいた教義の方が、その教理の大元ということもあって非常にわかりやすいし、また救いの教理としての機能性が高い。
神智学でいうと、イエスキリストを自分の救い主として受け入れることは、コーザル層のカルマ(罪)によって支配される人生が終わり、ブッディ(主の愛、キリストの体、普遍的な教会・不可視の教会、時の終わりと永遠)に生き始めるということ。コーザル層ベースで成り立つのが一般的な宗教で、キリスト教神学はブッディ層を基底層として成り立っている教理。パラダイムが全然違う。
徳川幕府の鎖国によってこうした救済論としての完成度が非常に高いキリスト教が、国を脅かすものとしてはねのけられたんだけど、もし西洋からやってきたバタ臭い非仏教的なものとしてではなく、当時の宗教関係者を中心として成就した仏教教理として受容していたら、日本はおそらく全く違う歴史、国になっていたのではないかと思う。それがまさに今始まる時なんだろうと思う。
日本の諸外国からキリスト教の価値を伝えられる外的な召命の時代が終わり、聖霊の働きを通じて自らイエスキリストやパウロを始めとした使徒たちの言葉を理解できるようになる内的な召命が起こり始める時。日本の霊性がいよいよ目覚める時。

ブッディ層は、キリストの身体。

つまり、ブッディ層は、キリストの身体であって、チャーチ(東西古今の信徒の繋がり、普遍的な教会・不可視の教会ということか)なんだな。なるほどね。

Jun03

週間占い、および、新月の願いごとと満月のリリースのワークの終了のお知らせ

こんにちは、ユピテルジョージです。いかがお過ごしでしょうか。
今日は、週間占い、新月の願いごとと満月のリリースのワークの終了について、
皆様に大切なメッセージをお知らせします。

ちょうど、今月で、活動開始から12年になります。
この12年の間にも、西洋占星術師として、セラピストとして、
神秘学の研究者として、実に様々な経験をしてきました。

今年に入ってから、これまでの12年間を振り返りながら、
できたこと、できなかったことなどを整理し、
じっくりと自分の人生の方向性を考えてきました。

そこで、先月あたりくらいから、ゆるぎない自分の確信として、
人生のかじ取りを大きく変えていくことを決断しました。

それは、西洋占星術師を辞めて、自分自身のより深い部分にある
ルーツである、聖書やキリスト教の世界を伝えていくことです。
そして、イエスキリストが伝えた「無償の愛」とはどのようなものなのか
ということについて伝えていくことを、
今後の活動の軸に据えていくことにしました。

こうして決めた背景には、様々な理由がありますが、
まず私にとって一番大きいことは、
占いや、神秘学には、人を導く上で、
限界があるということを、痛切に感じることが増えてきたことです。

自分自身もセラピストや占星術師の育成に長年携わってきたので、
自分の人生は、自分一人の人生ということだけでなく、
セラピーや占星術の世界に対する責任があると思って常に活動してきました。

特にこの5年ほどで強く実感するようになったのですが、
SNSの発達などによって、 10年前に比べて、情報発信は格段に楽になり、
セラピストとして、占い師として発信するハードルが下がったことで、
必ずしも倫理的、霊的に正しいと思えないような玉石混交の情報が、
ネット上に蔓延するようになってしまっていることに危機感を持ってきました。

そして、少なからず、自分自身の歩みを振り返ってみたときに、
こうした流れに、何よりも自分自身が参画していたのではないかという
深い反省があります。

どれだけ、自分が正しいと思う表現をしていたとしても、
人間である以上、発言や生き方にもぶれが生じますし、
また、伝言ゲームのように言葉が広がる過程の中で、
同じことを表現しているようでいても、
全く異質な言葉になってしまうこともあります。

特に、僕自身が振り返ってみて思うことは、
これまで12年間、一貫して、「自分を愛すること」がとても大事だという
メッセージを伝えてきました。
しかし、最近のインターネット上での論説の傾向を観ると、
こうした言葉はしばしば「他人を気にしないで自分軸で生きること」
「自分勝手にふるまうこと」という誤った理解をなされてしまうことが
多いんだなということを、振り返って感じ、
こうしたことに胸を痛めることが多くありました。

こうした論調は、エコーチェンバー現象とも呼ばれています。

【エコーチェンバー現象とは】
https://bit.ly/2GJ10nn

本来SNSの登場は、「友達の友達は、友達だ」という思想で作られたものであり、インターネットで多くの人たちとつながるはずだった人々が、
むしろ、SNSの枠組みの中で、価値観の合う人とだけつながるようになり、
異質な考え方を持った他者とのつながりは分断され、
むしろ人々は、孤立していっているのではないかと感じています。

おそらくこうなってしまった背景には、SNSだけでなく、
占いや自己啓発の文脈を作り出す思想そのものに
構造的な欠陥があるという問題に、気づき始めたのです。

こうした最近の流れを見ながら、自分自身の在り方をどのように
正していけばいいかということを、特にこの数年は深く向き合いながら、
考えてきました。

そこで出た答えは、「自分を愛すること」の前提にあるものとして、
そもそも「人を無条件で愛せるようになること」「犠牲の愛の大切さ」を
ダイレクトに伝えていくことの方が大事だということでした。

そして、この思想はどこからくるのだろうと、
自分を深く振り返ってみたときに、明らかになってきたのは、
キリスト教の価値観であり、また、聖書の言葉だったのです。

僕自身が、聖書の世界と初めて出会ったのは、小学生の時。
学校の近くで、いつも近くの教会の人が、紙芝居をもって
聖書の話をしてくださっていました。

よく考えてみると、この時に、僕自身は、
「人を無条件で愛すること」の大切さ
「汝の敵を愛せよ」という言葉の重みを深く学んでいました。

ある意味この経験がなければ、自分の人生を投げうってでも、
人助けの人生にしていこうとは思わなかったと思います。

結果的に、聖書という「無条件の愛」の概念を示す
自分にとっての根本的なルーツに行きつくまでは、
仏教、神道、東洋占、風水、西洋占星術、心理学、量子力学など、
様々なことを学んできました。

しかし、最終的に、一番伝えたい大事な言葉は、
全て聖書の中の主イエスキリストの言葉であるということに、
深く確信に至りました。

僕自身はカソリックやプロテスタント、正教会、福音派など、
どこか特定の教会、教派に属しているわけではなく、
またいわゆる受洗(バプテスマ)をしているわけでもありません。
しかし、聖書の研究を進め、深めるにしたがって、
日本独自のクリスチャンの在り方を模索し、無教会主義という形を見出した
内村鑑三のように、日本には日本らしいクリスチャンとしての在り方が
あるのではないかということを深く感じる機会が増えてきました。

【内村鑑三】
https://bit.ly/2WIrob4

しかし、こうして自分自身が主イエスキリストを信じ、クリスチャンの価値観に基づいて生きてきたことを、公に告白するのは、今回が初めてです。この数年自分の人生を在り方を振り返ってじっくり内観していったときに、小さいころから、私は主イエスキリストを、自分の救い主として受け入れてきたということに気づいたのです。

と同時に、聖書の世界においては、占いは禁忌でもあります。これまで2007年のスタートから、なるべく「占い」的なものにならないように、心理学や、神智学、量子力学などの学問的なベースを大切にして、「信じる占いではない、使う新しい占い」というコンセプトで、活動してきました。占いではないよ、という気持ちではあったのです。

しかし、やはりよくよく考えてみると、自分がやっていることは、占いに他ならないわけです。また、聖書的神学を学べば学ぶほどに、まったくこうした占いの言葉は、人が霊的に正しい生き方をする時に必要がないばかりか、しばしば誤ったメッセージを伝えてしまうことも、深く感じるようになり、悔い改めていくことになっていったのです。

こうした背景から、私自身、この2019年6月をもって、占星術師ユピテルジョージとしての歩みを終えて、一人のクリスチャン杉本譲治として生きていくことを決断しました。杉本譲治というのは私の本名です。

といっても、基本的にこの12年間皆様に愛を込めてメッセージを届けてきた事実には何も変わりがないですし、むしろ、これからは一人のクリスチャンとして、皆さんのために仕える僕(しもべ)として生きられるということに喜びを感じています。

また、「占い」を求められてきた人にとっても、満足いくような「人生の指針」を、聖書の言葉でどのように伝えていけるだろうかというのが、僕自身の人生における新しいチャレンジでもあります。

週間占いや、今週の星便りも、おかげさまで長年にわたって愛され続けてきたコンテンツですが、これからは占いという形を終焉させ、抜本的に発信の内容が変わっていくことになると思います。しかし、変わらない姿勢は、「一人の人間として、皆さんに、自分の言葉で愛を込めて伝えていくこと」です。

日本人にとって聖書やキリスト教は、あまりなじみのない文化だと思います。そこで、ユピテルさんどうしちゃったんだろうと、不思議に思われたり、時には不審に思われることもあるかもしれません。しかし、一貫して、愛をもって伝えていけば、きっといつかは伝わるかなと信じております。

これから私にとって、新しいスタートになりますが、このメルマガや、週間占いも、一度これまでの発信方法を見直し、新しい時代にあった人生の指針となるメッセージをこれからも伝えていきたいと思います。

こうした理由から、一度、この週間占いや満月・新月占いの更新は終了とさせていただきます。これからの活動についてはブログや、メルマガ「今週の星便り」などで随時お伝えしていきます。色々活動の方向性がきれいにまとまってくるのは、おそらく半年くらいはかかるかなと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。

何はともあれ、これまで12年間の長きにわたって週間占いや占星術の続けてこれたのも、皆さんのおかげです。皆さんのご愛読、ご愛顧に深く感謝するとともに、これからもよろしくお願いします。

最後に、聖書の中から、キリスト教の信仰の根底にある「隣人愛」についての大切なメッセージを引用します。

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳

これまでご愛読してくださった、皆さんに心から感謝申し上げます。これからも、皆さんに深い愛のメッセージを伝えていけるように、主が見守ってくださいますように。主イエスキリストの御名においてお祈りいたします。アーメン。

自分の心がエコーチェンバー化しないために

テクノロジーによって、いかにエコーチェンバー化しようとも、自分の心までエコーチェンバー化してしまってはいけない。そうならないためには、「汝の敵を愛せよ」。これに尽きる。心地の良い関係性だけを続けるのではなく、コミュニケーションを重んじ、人間関係を切らないことが大切。忍耐強く対話し、待つ姿勢が大事。自己を開示できない人間の弱さに、サタンや悪霊は付け入ることになる。

Jun04

マンデラエフェクトと信仰告白

もともとクリスチャンとしての信仰告白をしたのは、マンデラエフェクトとその研究過程、および自分自身の占星術家やセラピストとしての経験を通じてで確実にイエスの存在を確信したから。キリスト教神学を学ぶほどに、あらゆる要素において、ヘレニズム化、シンクレティズム化していた当時の一般的な宗教形態を乗り越えるべくして、主によって準備された計画であることがよくわかる。多分僕自身の本質的な役割は、こうした背景から生まれてくるんだと思う。全ては主の御心のままに。父と子と聖霊の御名においてお祈りします。アーメン。

キリスト教世界におけるへブル主義―ヘレニズム主義の両極性

主にアメリカで勃興している福音派の流れ(さらにこれからおそらく日本にも入ってくると思う)は、アメリカがヘレニズム主義的自由主義(左)に偏りすぎたために、伝統回帰でへブル主義(右)へと移動しているからなんだよな。でもそもそも、キリスト教の成り立ち的で考えると、そもそもへブル主義的なユダヤ教と、ヘレニズム主義的異邦人世界とが出会った中で、アウフヘーベンする形で成就したものが新約聖書の世界であって、へブル主義だけに偏りすぎても、また、新約聖書が描かれた時代において成り立ったユダヤ人社会と異邦人世界との中庸を見失ってしまうことになるんだよな。近代自由主義神学という偏りの反省から、カール・バルトの神学(新正統主義神学)が生まれ、(あるいは別の経路で言うと、この時代に同時にグノーシス主義的、シンクレティズムとしての神智学運動などもここで生まれたんだと思う)、時代を経て、アメリカ的福音主義という形でへブル主義がかなり強調された神学が起こるという、キリスト教世界も歴史的に見れば、右と左とを常に時代とともに行き来している。逆に言うと、そもそも教理の中に、へブル主義―ヘレニズム主義という両極性を内包して、なおかつそれが「福音」という形で、成就しているというのが、世界中で3割の人が信じうるだけの救済論として非常に完成度の高い教理になっている背景でもある。

つまり、キリスト教世界というのは教理的に言うと、へブル主義―ヘレニズム主義という両極と、集団救済論でいうところの「すでに/いまだ」という終末的緊張の中で、バランスをとりながら思想という側面でも発達してきたということなんだな。

エコーチェンバーのフィルターバブルを乗り越える「献身の愛」

クリスチャンとして生きるということは、イエスのように、相手の(場合によって「汝の敵」の)十字架をいかに背負って、自らを献身的に自らを生贄として主にささげ、相手の罪が福音によって贖れることを願うかというテーマになるんだよな。むろんこのベースには、福音を伝えるという明確な目的があり、ゆえにベースとしての信仰告白(イエスを救い主として受け入れていることを公にすること)はすごく大事なんだよな。信仰告白がないと、相手の罪が赦されるのを願って、相手に捧げる犠牲の愛が、主への生贄にならないからね。つまり、何のために、無償に愛しているのかが伝わらない。こういった信仰告白をしていないことによって起こる失敗は、実にたくさんしてきたなと、振り返って思う。逆に信仰告白をした今は、非常に安心。
こうしたことが、聖書的に見た、無償の愛や犠牲の愛の論理的な根拠になるんだよね。そして、確かにこの論理でないと、結局のところ福音は広がらないのも確か。つまり、福音宣教とは、信仰告白をした後、いかに社会や他人に対して、相手の十字架を背負うかということにかかってくるんだよな。むろん、こうしたことも、自分自身が主イエスキリストによって、救われたという実感があるからこそできること。エコーチェンバー化する時代においては、このクリスチャニティに基づく献身の愛こそが、結局のところ、見えない壁(フィルターバブル)を、一番乗り越えるすべになるんだよな。
ドフトエフスキー「白痴」におけるムイシュキン公爵も、ようは彼は、キリスト者としての自覚がなく、また信仰告白もしなかったため(もともとクリスチャンという設定では無いが)クリスチャン的な犠牲の愛に生きながらも、理解されず、周りを巻き込んで、悲劇を生み出したんだよな。信仰告白をした今となっては、しみじみよくわかる。クリスチャンにとっての信仰告白はとても大事なんだな。

確信

やっぱり主の召しによって、クリスチャンになったことは、間違いがなかったみたい。毎日確信が深くなる。

Jun05

主に与えられた賜物と、サタンに送られた棘

なんだかんだ果てしない人生に対するそこはかとない前向きさと強い情熱を賜物として主に与えられていることに気づく。純粋な思いで人助けをしたいという想いに生きてきたからこそ歩めた道。それでも長く続けていれば、そもそもアプローチが間違えていて人生の目的に届かないものもある。アプローチは改善すべきで、これまで築いてきた確かな基盤を全て投げ打ってでも、今度は福音宣教に全生命力をかけられる。人生の時は有限だ。人はマモン(お金)と神の両方に仕えることはできない。主の召しに応えて進む幼子のような純粋さという賜物を主に頂いたことに感謝しかない。人によって僕の目標に向かう時の行動が時に狂気じみたように映るのも、主の召しに純粋に応えたいという思いに生きているから。キリストイエスの犠牲の愛が精神のコアになければ、こうした純粋な、時に他人にとっては狂気的にしか思えない愛で、自らを献身する行動原理は持ち得ないと思う。
霊的な献身ではなく、マモンに仕えるような、今の堕落した日本の霊性文化に対する怒りを、批判や否定的なエネルギーではなく、主に与えられた賜物である持ち前の情熱と創造のエネルギーで、どれだけ日本の霊性向上のために、自分の十字架を背負えるか、献身を続けていきたいと思う。全生命をかけて、主の召しに応え、主に使えていきたいと思う。確実に燃えてきた。
こうした情熱は、結局のところ、初代教会や、ルター、カルヴァンに通ずるものがあるのだと思う。そもそも日本の教会文化も、どこまで宣教に本気の覚悟を持てているのかということを思えば、目覚めないといけないのではないかと思う。真剣に、イエスキリストの十字架を日本の霊性向上のためにどこまで背負えるかが大事なんだと思う。僕は全生命をかけて、不可能に挑みたい。主を賛美し、100%の愛に生きるために。
ニューエイジ に生きていたということはクリスチャンとしては棘でしかない。クリスチャンとしては最も低きものとして、思い上がることのないように、その低さゆえに謙遜にならざるを得ない棘。そして、幼子のような信仰心によって、無私の心で生きていきたいと思う。アーメン。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭12:7-10‬ ‭新共同訳‬‬

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳

霊的な堕落 マモンの奴隷

主に対して何の犠牲も捧げない自称セラピストは、主に使えているのではなく、生業として、マモン(お金)に使えているだけ。あけすけにマモンを讃えて、主の言葉を振り返りもしない、知ろうともしない人は、そもそも最初からセラピストやカウンセラーでもない。人助けというものの根本を考え直したほうがいい。結局引き寄せの法則などのグノーシス主義は、こうしたマモンに仕える霊的な堕落を生み出した。こうした日本の霊的な堕落こそ、まずはセラピスト自身が悔い改めないとね。
そもそも、マモンに仕えると、あっという間に滅びるんだよね。長い年月の間の中で培われてきた普遍的な法則である「原則」を中心にしないと、必ず中心としたものによって崩れていく。原則を学びもしないで、マモンに仕えることは、愚の骨頂といえる。

神の武具

福音を広く伝えていくことは、取りも直さず、サタンや悪霊と立ち向かう霊的な戦いでもある。聖書が教える7つの神の武具は、真理の帯、正義の胸当、福音という履物、信仰という盾、救いの兜に、御言葉という霊の剣、そして御霊による祈り。これをしっかりと身につけること。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
‭‭エフェソの信徒への手紙‬ ‭6:10-20‬ ‭新共同訳‬‬

中間にある霊的な存在の使役の問題や、新月や、占星術などについて。

西洋占星術はもともとバビロニアの神学だが、グノーシス主義的な神学、西洋占星術を突き詰めていくと、コーザル層からブッディ層という振動数に突き抜け、最終的にはキリストイエスこそが真実であることがありありとわかる。そして、すでにこの振動数は聖書によって成就している。つまり今の時代にそもそも占星術を究めること自体が、ナンセンスだということを12年深く研究してきてよく分かった。

コロサイの信徒への手紙2章16節の「祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。」というのは、まさにこの真実を表現している。

「 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。」というのも、すでに三位一体の神学で直接聖霊を通じて、主とつながれるにもかかわらず、チャネリングなどで中間の霊的存在を使役する(その1/3は悪霊である)ことは、ナンセンスでしかない。

こうした罪を犯してきたからこそ、今は聖書の価値と、イエスキリストの贖いと赦しの大きさが、しみじみとよく分かる。イエスキリストの贖いこそ、本当に人を救う教理であることは、強調してもしすぎることはない。

「だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。 偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、 頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。この頭の働きにより、体全体は、節と節、筋と筋とによって支えられ、結び合わされ、神に育てられて成長してゆくのです。」
コロサイの信徒への手紙 2:16-19 新共同訳

グノーシス主義は、知恵あるものを高慢にさせ、貧しきものを貧しくさせる。

グノーシス主義の本質は知恵あるものを高慢にさせ、貧しきものをより貧しくさせる。福音と真逆なんだよね。そりゃ二極化もする。

「「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」」
‭‭マタイによる福音書‬ ‭7:15-20‬ ‭新共同訳‬‬

「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭18:14‬ ‭新共同訳‬‬

「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい。 また、富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい。富んでいる者は草花のように滅び去るからです。 日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまいます。同じように、富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです。」
ヤコブの手紙 1:9-11 新共同訳
https://www.bible.com/1819/jas.1.9-11.新共同訳

Jun06

主を愛することと自己開示

心理学では自己開示の大切さについて語られることが多いが、
素直に自己開示したり、謝れたりすることは、
そもそも「主」という主語がない限りなかなか難しいものである。
クリスチャンの文化の中では、「罪の告白」ということは
「主の恵みによる愛と、赦し」と常にセットになる考え方。
主に赦された人が、自らの弱さを誇れるのは、自分ではなく、
その主を誇るから。
ゆえに、自らの罪を告白し、主に謝るように、
人にも謝れ、主に自己開示するように、人にも自己開示できるようになるということ。
大事なことは、人生の主語は、自分ではなく、主にあるということ。
このことが自己開示をとても楽にさせる。
常に主との関係性の中で、小さな自分を振り返る視点こそが、
主に愛されるために必要な姿勢。
自分で自分を受容するという心理学的な考え方は、
しばしば自己義認に陥り、その後、霊的な危機に陥ることが非常に多いように思う。
あくまで心理学の根本は、そのベースとして「セルフ」を扱う、
非クリスチャン的な考え方だということを強調しなければならない。
もともと心理学を創始した学者のほとんどがユダヤ人であって、ユダヤ人であるということは無論キリスト教ではないということは大事な点。
そのベースにキリストイエスで成就した、「無条件の赦しの愛」「信仰義認」という価値観がないため、あくまで「技による救い」をベースとした枠組みの中での学問になるからね。
大切なことは、主が自分を受容してくださっていることを知り、
主を賛美すること。主こそ我が誉れ。アーメン。

福音の本質は、知ではなく、愛で受け取るもの。

聖霊は、知ではなく、愛でもって伝えてくれる。ゆえに福音の本質は知的に理解することではなく、ただただ信仰によって受け取るもの。信じなくても知は受け取れるが、信じていなければ、愛は受け取れないからね。知で受ければ人は傲慢になるが、愛で受け取れば人は謙虚になる。アーメン。

自由主義神学の反動形成としての心霊主義や神智学運動について

神智学運動の勃興はいうなれば、近代化に伴う自由主義神学の反動形成なんだな。新正統主義のカールバルト が出てきた段階で、キリスト教神学としてはひとまず自由主義神学の行き過ぎはひと段落して、収集がついたともいえる。
神智学運動にはダーウィンの進化論も大きく関係しているし、当時の行き過ぎた自由主義神学の台頭によるキリスト教神学界の混乱が、逆によくわかる。そりゃニーチェも神は死んだというよな。ある意味その当時はサタンや悪霊でもなんでもいいので、霊的存在につながりさえすればいい(心霊主義)みたいな、キリスト教世界の神学的危機、霊的混乱があったんだな。ようは当時のニーチェの神の死は、同時にサタンや悪霊の死を意味したわけだ。
ある意味今の世界は逆に、高度な情報化で、非物質的世界になって抽象度が上がってきたことで、むしろ神が復権した時代に入ってきた。それ故に、キリスト教神学のリアリティもより正確に、深く理解できる時代に入ってきていて、オカルトや心霊主義である必要もなくなってきているということ。霊的な物事は、キリスト教神学で全部ちゃんと扱える。そもそも霊的なエネルギーの実在は今の日本人の多くは感じているので、日本のニューエイジからキリスト教神学への移行は、主に「聖霊論」から入るといいんだと思う。キリストイエスの死と復活による罪のあがないを信じれば、聖霊が内住すると言う理論は、今の多くのニューエイジャー にとっては、エネルギーとして実感できるし、無防備にアストラル界に入ってしまうアチューンメントと異なり、悪霊が一切内住しない絶対的な安心感と、シンプルさ、完璧さに、皆驚くんじゃないだろうかと思う。そうすれば、ロマ書の信仰義認の素晴らしさや、集団救済論の完全性の高さに驚くと思う。こうした完全性を知るに従って、ニューエイジ的な文脈に生きることが次第にバカバカしくなると思う。

Jun07

愛の原理

愛の原理について、しっかりと語れる言葉を持てるようになったことが、何より主の恵み。主の栄光を表していけるように、世界に献身の心でこれからも頑張っていきたいと思う。父と子と聖霊の御名によってお祈りします。アーメン。

伝道者の書(コヘレトの言葉)

伝道者の書(コヘレトの言葉)が素晴らしい。現代神学でいうとカールバルトの新正統主義的な思想が深く刻まれている書。グノーシス主義の中にいたからこそよくわかるが、人間の知恵の限界と、「神を畏れ、その戒めを守れ。」(コヘレトの言葉12章13節)という結論に集約されるまでの理論展開が本当に素晴らしい。これは新約聖書の信仰のみによって義とされるという信仰義認の型となる書だね。

「コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。 コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。 賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。 それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。 すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」
‭‭コヘレトの言葉‬ ‭12:9-14‬ ‭新共同訳‬‬
https://www.bible.com/1819/ecc.12.9-14.新共同訳

クリスチャンとして信仰告白することとは

クリスチャンとして信仰告白するということは、セラピスト/クライアントというフレームから脱して、兄弟姉妹というフレームに変わること。そして、万人司祭であるところの牧師の役割とは、全身全霊で主や周りの人たちの僕(しもべ)として仕えること。つまり主は、牧師という存在を、その御手で、もっとも低く、謙遜なものにしてくださる。なんとありがたいことか。サービスを売り買いするだけの、一時的、限定的な関係ではないということ。人生をかけて、人に仕える。この覚悟こそ、僕自身が求めていた「人助け」の基準だ。どこまでも低く、低く、生きたいと思う。主こそ我が誉れ。アーメン。

ルツ記

異邦人世界への伝道の精神的鋳型(主は異邦人をも愛される)となった「ルツ記」も素晴らしい。旧約聖書の理解が深まると、主の御業、主の栄光への深い畏敬の念が増していく。
旧約聖書の歴史書も、ある意味スターウォーズよりも世界中で受け入れられている元型的な物語なわけだから、日本人もちゃんと知っておくべきなんじゃないかと思う。特に、国際感覚を身に付ける上で、へブル主義的な価値観を知っておくことは必須だと思う。あくまで日本人の感覚って、戦後は特に、海外からの影響で言うと、へブル主義的な価値観の反対の極にある、アメリカの大衆文化から入ってきたヘレニズム主義的な価値観しか受容してきていないはずだから。
そもそもLOVE&PEACEで、世界平和を歌うならば、スターウォーズよりも実際の世界情勢に大きな影響を与えている元型的神話(ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の教典)であるところの旧約聖書の歴史を知らないのは無責任なのではないだろうかとも思う。日本の多神教優位論に立つってことは、ようは当事者の基本的な背景も知らずに、日本人は多神教だから素晴らしいと居直っている、自分自身こそが批判している「一神教的独善主義」に基づいていることに気づかないといけないと思う。へブル主義的な価値観を学ぶと、こういう視点はちゃんと見えてくる。日本人、目を覚まさないとだと思う。
真の意味で多神教を唱えるならば、日本人的にとって異教的なへブル主義的な価値観にもしっかりと虚心坦懐に受容を心がけ、その上で、自分なりの価値観を形成していくべきではないだろうか?
ルツという女性は、旧約聖書の時代に、イスラエルの民たちの信仰が乱れた士師記の時代に、異邦人でありながらも、主をまっすぐに信じて、ダビデ王、そしてイエスキリストに繋がる家系のルーツの一人となった。イエスの贖いによって、異邦人にも広く聖霊が下る時代になった、恵みの時代である今、こうした世界観を知っているかどうかは、日本が本当の意味で国際感覚を養う上でもとても大事なことなんじゃないだろうか。

Jun08

セルフブランディングという自己崇拝と、資本主義的な価値観

エコーチェンバー化して関係性が分断され、細分化していく流れを食い止める方法がわかってきた。やはり「友だちの友だちは友だち」「自分を愛することが大事」なんじゃなくて、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」というクリスチャ二ティが1番大事。結局自分の罪や、人の罪を赦さない限り、人間関係はうまくいかないよ。信頼って実直な愛あるコミュニケーションの中でしか生まれない。
特にSNSがインフラ化する社会においては、アフォーダンスとして気づかない間に人の考え方は「セルフブランディング」的発想に向かうし、自ずと自己崇拝的コミュニケーションになっちゃうんだよね。よくない、よくない。
商用利用可能になったアメブロとかが顕著なんだけど、このセルフブランディングの文脈に、さらに資本主義的価値観が組み込まれる。そもそも自己啓発的やニューエイジ的文脈が定義するほど、等身大の人間そのものには価値がないわけで(聖書的な原罪の概念)、商品化、パッケージ化されたセルフイメージは自ずと実体経済(本来の価値)から離れてバブルへと向かわせ、そのうちそうしたバブルは崩壊する。バブル期の土地神話みたいな感じで、自己が持つ価値を過大評価しすぎているんだよな。皆がだれも疑わないような熱狂の中にある時には気づかないけど、冷静になればよくわかるはず。
そもそも人の価値の中心を経済的尺度に持って行くこと自体に無理がある。経済的な価値によって測れる人間的な価値は、あくまで周辺的なものであって、中心ではない。そういう意味で聖書的な意味で等身大の罪人である自分を、受け入れ、悔い改めたほうがずっとシンプルに、健全に生きられる。人間性心理学と、SNSの構造がある意味相性がいいため、バブル期の土地神話のような変なバブル現象を引き起こしているんだよな。まぁ、こうしたバブル構造も、エコーチェンバー化してるから、バブルの真っ最中に、周囲から伝えても気づきにくいんだけどね。
やっぱクリスチャニティの精神で表現されるような、「犠牲の愛、献身の愛」「汝の敵を愛せよ」といった誠実なコミュニケーションが、一番なんだと思う。

「富に依存する者は倒れる。神に従う人は木の葉のように茂る。」
‭‭箴言 序‬ ‭11:28‬ ‭新共同訳‬‬

無教会主義とは

日本では「余は如何にして基督信徒となりし乎」で著名な、明治期のクリスチャンの内村鑑三によって、日本人らしいクリスチャンの在り方として、「無教会主義」というものが提唱されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%95%99%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E7%BE%A9

僕の在り方も、この無教会主義に準ずる在り方。無教会主義といっても、教会や典礼を否定するわけではなく、形があろうがなかろうがどちらでもいい、信仰のあり方、心の在り方こそ大切というとても日本的な考え方。日本人や日本文化の霊性高さゆえに、聖霊の存在を身近に感じられる感性があるからこそ、成り立つ在り方なのだと思う。

興味深いのは、気づいたら、僕の元で学んでいる多くの方が、ミッション系の学校や幼稚園などに通っていたりして、もともと僕と出会う前から、福音を知っていた人が多い。
(あるいは家がお寺のお坊さんや神社の神主系の人など、普遍的な宗教教育を受けてきた人。カソリックでは、こうしたキリスト教以外の人も、間接的にキリスト教的な救済論に触れていることで救われていると考え、「普遍的な教会」に所属していると考える。特に、日本だと浄土真宗なんかはかなりキリスト教の教義と類似しているが、これはキリスト教ネストリウス派である景教の影響があるといわれている。)
つまり、結果的に、占星術を学んでいるようでいて、実は出会う前から「普遍的教会」に所属していて、また、無教会主義的なスタンスのクリスチャンの集いだったことに気づいたわけだ。

日本の霊性と、クリスチャニティにおける「聖霊論」

たぶん日本のクリスチャニティは、おそらく「聖霊論」から入った方がいいと思う。日本人の霊性文化は、非常に高い基準の厳格な「技による救い」によって、とても「見えないものを見る」感性が強い文化だ。いわゆる空気が読めるというのは、霊的な直観が背景にあるということに他ならない。日本人の独特の空気を読む感性は、ただの同調圧力によるものだけというわけではないと思う。明らかに背景に日本人的な霊性文化がある。これは、ある意味ニューエイジ的文脈の受容にも大きな影響を与えている。

キリスト教教理をしっかりと取り入れるのならば、ペンテコステの日からクリスチャン信徒たちに下った「聖霊」の側面から入ると、とても分かりやすいと思う。
いわゆるこの聖霊とは、ニューエイジ的な文脈で言うと、チャネリング(異言や預言)であり、ヒーリング(病の癒し、プラーナ、気)であるわけだ。何も高いお金を払ったり、たくさんの時間をかけて、アチューメントをしたり、ヒーリングの勉強なんかしなくても、ただただイエスが私たちの罪のために死なれて、墓に葬られ、3日後に復活し、今もなお生きておられるという福音を信じれば、ダイレクトに、聖霊を通じて、創造主やイエスキリストと繋がれるわけだ。これを「霊によるバプテスマ」という。
洗礼者ヨハネが授けた「水によるバプテスマ」はあくまで罪を悔い改めるためのものだが、イエスキリストが十字架での死と3日後の復活という形で成就させたのが「霊によるバプテスマ」だ。
創造主とダイレクトに繋がれるわけで、天使や龍などの中間的な霊を使役する必要も一切ない。というよりもむしろサタンや悪霊は、こうした一見よい霊に見える天使や龍の姿をして近づき、人を欺くことに非常に長けている。
また、驚くべきことに、一度内住した聖霊は最後の審判の日まで、自分の内側に宿り続ける。キリスト教の救いは、永久保証なのだ。
さらに、父と子と聖霊の三位一体の神という神学によって、サタンが入る隙間が一ミリもない。
しかも聖霊を通じて受け取ったメッセージは、ちゃんとそののち、神の言葉である聖書を通じて、正しいかどうかもしっかりと吟味できる。聖書的知識がしっかりあれば、こうしたチェックもさらに厳密なものになる。こうしたところからも、キリスト教の救いの教理の完成度は異常に高いことがわかる。なんと素晴らしい教理なのだろうか。

こうした背景から僕も安心して、ニューエイジ的な文脈を完全に卒業ができた。
福音、そして、キリスト教神学を学ぶことは、ニューエイジャー(これはキリスト教的に言えば「迷える子羊」といっても過言ではない)にとっても、救いでしかないのだ。

「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」
使徒言行録 1:3-5 新共同訳

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」
使徒言行録 2:1-13 新共同訳

クリスチャンになることとは、出家ではない。

まぁ、そもそも日本人は、どんな神様でも寛容に迎え入れる多神教だからこそ、クリスマスを普通に祝えるんだよな。この感性自体が、そもそも日本独特のキリスト教の信仰形態、「無教会主義」につながっていく部分がある。
よく勘違いされるのだが、クリスチャンになるっていうのは、そもそも日本だと「出家する」くらいの感じで重く受け止められることが多い。それこそ、教会は、お寺のような修行の場だとさえ勘違いしている人もいる。クリスチャンになるといろいろと戒律がすごいんじゃないかとか、勝手に勘違いしてしまう。
しかし、そんなわけがなく、あくまで単純に「イエス様を私個人の救い主として受け入れます」ということ。修行なんて要素は全くなく、信仰だけによって、救われる。あまりのシンプルさに拍子抜けすると思う。正確には、イエス様が自分の罪のために死なれて罪を贖ってくださり、墓に葬られ、3日後に復活され、今も生きておられるという「福音」を信じるだけで救われる。

そもそもキリスト教では、仏教や神道などのように修行という要素を完全否定しているし(信仰義認)、日本人が「宗教」と聞いて思うような厳格な律法主義的要素はほとんど、というか全くない。むろんシナイ契約にてもたらされた、十戒という律法はあるが、あくまで律法を守ることによって救われるというわけではなく、救われた結果、自然に聖化と呼ばれる罪の浄化が進むことで、おのずと、自らの意志で罪から離れていけるようになるのだ。
ただただ、イエス様を自分の救い主として信仰すること。これだけで、能力や努力と全く関係がなく、救いが得られるというとてもシンプルな構造。しかもその救いは永続的なものであり、最終的には仏教でいうところの「悟り」へと、栄化、聖化を通じて、イエス様が主体となって導いてくださるというとてもありがたい教理なわけだ。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」
コリントの信徒への手紙一 15:1-4 新共同訳

Jun09

【ベツレヘムの星便り】400年の時を超えて、動き出す「愛と目覚めの物語」

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◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)
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 2019/6/9                  355号
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こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。

メールマガジンの名前が変わってしまって、驚く方も多いかもしれません。
先週のメルマガにてお伝えしたのですが、この2019年6月から、
西洋占星術師ユピテルジョージとしての活動を、全て終了し、
これから一人のクリスチャン杉本譲治として、
皆様に、メッセージをお届けすることを決意しました。

▼週間占い、および、新月満月占い終了のお知らせ
http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/post_1359.php

といっても、皆様に届けるメッセージはこれからも変わらず、
愛を込めた、この高度に情報化した時代を心豊かに生きるための秘訣を、
お届けしていくというコンセプトは何も変わりません。

セラピストとしての活動開始から12年。
気づけば、僕がスタートした時には考えられないくらい、
スピリチャルな世界は、
日本でも広く受け入れられるようになりましたね。

しかしその一方で、日本が欧米から受容した
現在のスピリチャリティの文化は、現時点では、
全くもって不完全なものであると
言わざるを得ない「致命的な盲点」があります。

それは、欧米ではあらゆる全ての常識であるところの
「キリスト教への正しい理解」が、
日本のスピリチャリティにおいては、
あまりにも、すっぽりと抜け落ちてしまっているということです。

12星座占い、ホロスコープ、新月や満月占い、
引き寄せの法則、原因と結果の法則など、
日本が受容している占星術などを始めとした
ニューエイジ的なスピリチャリティは、
本来の海外の正当な霊性文化から見たときには、
あくまで「本流ではない亜流のスピリチャリティ」であって、
真の意味での多くの人の人生を救う本家本丸は、
「キリスト教」にあります。

そもそも占いは、キリスト教においては、
厳しく禁じられていることはご存知でしょうか。
欧米における占星術師やニューエイジャーはこうした
キリスト教世界の枠組みの中で、あくまで「カウンターカルチャー」
として形成されてきた文化なのです。
それが日本に入ってきた段階で、こうした前提が崩れてしまっているのです。

このことは、日本のスピリチャリティ受容において、
全く持って、看過できない「盲点」ですし、
このままいくと、むしろ日本のスピリチャリティは、
SNSにおけるエコーチェンバー化などもあいまって、
かつてのオウム真理教事件のように、
再び危ない方向に進んでしまう可能性も充分にあるとさえ、感じています。

本来、キリスト教というものは、2000年前に西洋文明の中で
それまでの宗教が持っていた様々な問題点を乗り越えるべくして成就した
非常に完成度の高い救いの教理でした。
そして、その後、世界中の3割の人が信じ、
様々な人種や文化を超えて受け入れられるほど
普遍性の高い教えだったのです。
しかし、驚くべきことに、そうした世界の状況と比較して、
いまだ日本のクリスチャン人口は、
全体のわずか「1パーセント」しかいません。
そう、400年もの年月を経ても、この数字はほとんど変わらず、
ずっと「1パーセント」のままなのです。
これは、驚くべき数字だといえるでしょう。

なぜここまで日本におけるキリスト教受容は遅れてしまったのでしょうか?
それには、江戸時代初期の鎖国政策が大きく影響しています。
フランシスコザビエルによるキリスト教伝来から約400年間にわたって、
日本は、キリスト教の受容を実質的に拒み続けてきたのです。

科学や、自由民権運動などは、明治維新とともに
人々の間に受け入れられて、今や欧米世界と比べても、
その差異はほとんど感じないほどまで
追い付きました。しかし、スピリチャリティにおける、
世界ではスタンダードだといえる、キリスト教的考え方の受容は、
キリスト教が禁教だった時代から考えても、人々の意識は、
ほとんど何も変わっていないのです。

例えば、いまの日本の霊性においても、
諸外国から心理学が受容され、「自分を愛する」ということが
盛んにいわれるようになりました。
しかし、そもそも、果たしてどれくらいの人が、
「キリストの十字架における死と復活による原罪の贖い」
「アガペー(無償の主の愛)」というような、
欧米ではあらゆるすべての文化の前提条件となっている
「キリスト教的な愛に関する前提知識」を持っているのでしょうか。

あるいは、例えば、欧米では商習慣の前提となる「契約」という概念について
日本人はとても疎いといわれています。この契約という概念も、
もともとは旧約聖書がルーツにある考え方です。
ユダヤ人が商売が得意という背景も、旧約聖書の世界や歴史を
しっかりと理解しないとなかなか本質的には理解できません。

また、旧約聖書における「アブラハム契約」や「シナイ契約(十戒)」という
ものを知らなければ、なぜ欧米の人が、「罪と罰」という概念を重んじ、
またそれと同時に「赦しの愛(無償の愛)」の概念が存在するかも、
分かりにくいのです。
人類学者ベネディクトが「菊と刀」の中で述べたように、
欧米が「罪」を中心として考える文化であるのに対し、
日本人は集団的な圧力をベースとした「恥」を中心とする文化なのです。

こうした、聖書や、キリスト教の正しい知識抜きに、
どれだけ欧米から入ってくる霊的文化を受容したところで、
本当の意味での理解には遠く及びませんし、
また、そのようなところにどれだけニューエイジ的な思想や、
心理学的な愛の概念を取り入れようとしても、
日本の霊性の開花は、永遠にやってこないでしょう。

あくまで日本人の愛とは、どこまでいっても「和」「情」の延長線上にあるも
のであり、キリスト教の理解抜きに、決して心理学やスピリチャリティでいう
ところの「無償の愛」の理解に到達することはないのです。

僕のこれからの役割は、この江戸初期から約400年間もの間
時が止まってしまっている状況を打破して、
日本のスピリチャリティにおいて「正しいキリスト教理解」
を伝え、「愛」や「赦し」に関する理解をより深めていくことにあります。

さて、新約聖書の世界では、
「ベツレヘムの星に導かれた東邦の三賢者」という物語で、
これから私が皆様にお伝えしていく
バビロニアの神学である占星術から、完成された救いとしての、
主イエスキリストへの信仰へのシフトが象徴的に描かれています。

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★マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳
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イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。
そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、 言った。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。
わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」

これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。
エルサレムの人々も皆、同様であった。

王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、
メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。

彼らは言った。

「ユダヤのベツレヘムです。
預言者がこう書いています。

『ユダの地、ベツレヘムよ、
お前はユダの指導者たちの中で
決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、
わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』

そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、
星の現れた時期を確かめた。

そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、
見つかったら知らせてくれ。
わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。

彼らが王の言葉を聞いて出かけると、
東方で見た星が先立って進み、
ついに幼子のいる場所の上に止まった。

学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。

彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、
黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、
別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」

(マタイによる福音書 2:1-12 新共同訳)
───────────────────────────────────

この物語は、
バビロニアを中心として発達した占星術を使った王政の時代が終わりを遂げ、
キリスト教という、万人のための救いの教理が、誕生したことを
告げ知らせてています。

東邦の三賢者、つまりバビロニアの占星術師たちが、
「ひれ伏して幼子を拝んだ」という記述も
この「星」から「イエスキリスト」へという、
根本的な変化を、象徴的に語った言葉なのです。

今回のリニューアルにあわせて【今週の星便り】から、
【ベツレヘムの星便り】へと、新しく名前を変えたのには理由があります。

僕自身、これまでの12年の活動の中で、前回もお伝えした通り、占星術を使っ
た救いには限界があることを、深く悟りました。
そして、これにはそもそも、日本のスピリチャリティにおいて、江戸時代の鎖
国から綿々と続いているキリスト教への誤解があることが、年々理解できるよ
うになっていったのです。

そして、深々と、ひれ伏して幼子を拝む東邦の三賢者のように、「主イエスキ
リストの御言葉」こそ、これからの日本の霊性改革の本家本丸になることを深
く予感しているのです。

また、旧約聖書の中で、イエスキリストの到来について預言されているイザヤ
書においても、イエスキリストの再臨に際して、日本における霊性の目覚めが
あるということについて記述されている箇所があります。

───────────────────────────────────
★イザヤ書24章15節 共同訳
───────────────────────────────────
「それゆえ、あなたたちは東の地でも主を尊び/海の島々でも、イスラエルの
神、主の御名を尊べ。 地の果てから、歌声が聞こえる。「主に従う人に誉れ
あれ」と。」
───────────────────────────────────

このイザヤ書の「東の地」「海の島々」は日本を指しているという説が以前よ
り根強くあります。
その意味でも、私たち日本人が正しく聖書の世界を理解し始め、霊的な目覚め
を遂げていくことは、何も日本だけの意識改革にとどまることなく、これから
世界中に大きな影響を与えていくといえるのです。

こうしたテーマを深いベースに据えながら、今回新しく生まれ変わった【ベツ
レヘムの星便り】では、日本がこれまで400年にわたって取りこぼしてきたキ
リスト教や聖書のエッセンスを、皆様に分かりやすくお伝えしていきたいと思
っています。

このことによって、何よりあなた自身が、私自身が感じてきたような「救われ
る感覚」を感じられるようになっていくと思います。聖書はあらゆる世界にお
いて、いつの時代にも、人々の心を勇気づけ、慰め、常に寄り添ってきた神の
言葉だからです。

これから心を込めて書いてまいりたいと思います。ぜひ、これからもご愛読の
ほどをよろしくお願いいたします。

なお、これまでは月曜日配信でしたが、今回から日曜日配信となります。これ
はキリスト教においては、人々は日曜日に教会に集まり、主に祈る習慣がある
からです。これを安息日といいます。その意味で、このベツレヘムの星便りが、
あなたにとって一つの「不可視の教会」であり、また「安息日の祈りのための
書簡」になればという思いを込めています。

ペンテコステの日である今日、主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交
わりが、あなたがたすべてとともにありますように。アーメン。

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杉本譲治メールマガジン【ベツレヘムの星便り】
発行者:杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)
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▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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(c)2019 GEORGE SUGIMOTO All Rights Reserved.

Jun10

汝の敵を愛すること

やはりエコーチェンバー化しないためには、「汝の敵を愛せ」に尽きるんだと思う。同じ意見を持っている人だけ集ったところで、最終的にはその中でも「犠牲の愛」「献身」がなければ、結果的に分離は進み、さらに個人主義の極へと移動していく。「自分を愛する」だけだと、非常に危険。主を愛するという視点がとても大事。
ある意味イエスキリストの教えって、めいめいが正しいと思うことをして、社会が分離していっていたヘレニズムの時代に、違いを超えて繋がる方法を、主の御言葉を通じて示したもの。こうしたことが全ての人にとって啓示された言葉として今の時代にあることは非常にありがいなと思う。主イエスキリストの御名においてお祈りします。アーメン。

「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭6:20-26‬ ‭新共同訳‬‬

聖霊の働き

特に日本のスピリチャリティについての、一番大事な入口になりうるものは、「聖霊の働き」について。日本人の大きな特徴として、谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」のように「目に見えないものを見る」という文化的感性が非常に高い。お互いの空気、つまり心情を読みあうし、こうした感性は、日本人の非常に繊細な霊的な感覚を磨くひとつの土台となっている。
これゆえに、父―子―聖霊の三位一体の中でも、特に、この聖霊論から入ることは、日本人のスピリチャリティの在り方に非常に適した入口になりうるのだと思う。特に今の時代は、ニューエイジ的な言説が非常に広がっており、またそれに伴うサタンや悪霊などの「見えない霊」の働きも活発化しているので、日本人の特有の感性で、「何かがおかしいぞ」と誰しもが感じるようになっていると思う。
主は、イスラエルを回心させるために、バビロニアやエドム、アッシリアを立てたように、悪をもお用いになる。イスラエルの危機の時代にかかれた小預言書なども、イスラエルの民に対して主の裁きがあったのちに、必ず最後にはイスラエルの回復が語られる。聖霊論というのは、ある意味サタンや悪霊が起こる時代(そして、時にそれは主が裁きのために積極的に用いられる)こそ、そのありがたみがよく分かる。聖霊は常にジェントルに、その人を導き、イエスや主に立ち返らせ、聖化を通じて、人を主の栄光に立ち返らせていくことになる。

Jun11

汝の敵を愛せよ

https://news.tbs.co.jp/sp/newseye/tbs_newseye3690207.htm?fbclid=IwAR1TRnzRogI1G2ebECYh1OIwwRN7m2_IrDpS5ceovdS3UIOGqOOhmZ9zywQ

こういうエコーチェンバー化による社会の分断を解決する方法は、SNSの背景にある「友達の友達は友達」「同じ興味関心を持っている人同士が繋がることは価値がある」という思想を、一度振り返って、「汝の敵を愛せよ」という思想に基づいてシステムを作っていくことが、今後大事なんだと思う。そもそもSNSを中心としたメタ的なシステムが生み出している問題なので、何も政治的な領域だけに限らず、考えられうるほぼすべての分野でこうしたエコーチェンバー化は起きている。どんな時代にも科学が暴走して歯止めが利かなくなっていくように、ある種、システムの暴走が今の背景にはあるんだよな。しかも善かれとおもって作ったシステムが、暴走するということはよくある。

「「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」」
ルカによる福音書 6:27-36 新共同訳

Jun12

主の教えと救いは開かれている

星を読めるようになるよりも、聖書が読めるようになると、人は救われる。星をずっとやってきたからこそ、しみじみ、よく分かる。教理の完成度が違いすぎる。聖書は本屋に行けばすぐに手に入るし、キンドルでも買える。Youtubeで動画も見れる。読もうと思ったその日から、触れようと思ったその日から、イエスキリストを自らの救い主として受け入れれば、救われる。教会の日曜礼拝も気軽に、参加して祈るといい。どんな教会でも、快く迎えてくれる。主の教えと救いは開かれている。どんなにセラピーを学んだり、心理学を学んでも、行き着くこととない世界。そもそもパラダイムが違う世界。これに触れないのは、計り知れない人生の損失であるといえる。

日本におけるキリスト教受容

日本におけるキリスト教受容は、江戸時代は鎖国、明治時代に内村鑑三、新島襄などの牧師、宣教師たちが献身した後、国家神道が中心となり、第二次世界大戦に突入、その後アメリカの資本主義社会が流入し、ニューエイジ 運動と、明治初期の受容以来幾度となく受容がストップしている。明治初期に設立された日本の諸教会も、教会員の高齢化や後継者問題はかなり深刻に進んでいて、こういうタイミングで、主に召命されたのも、日本においてクリスチャンの新しい世代(コアジェネレーション)を興すためなんだと思う。
幸いなのは幼児教育や、ミッションスクールなどで、キリスト教精神に触れている、無自覚的なクリスチャンは相当数いるということ。多くの場合、こういう人はイエスキリストを救い主として受け入れているため、聖霊の内住が起こっており、しかし教理として聖書を学ぶ機会がなかったため、スピリチャルやニューエイジ 、心理学などで霊的な事柄を学んでいる人が多い。しかし、聖書を読めば、自分にとってのルーツが明確に分かるので、もはや真理を探し求める必要はなくなる。明確な自己言及ができるようになるので、非常に生きやすくなる。
これは言うなれば、ニューエイジ 的な文脈でいうと、自分がニューエイジ 的な意味で潜在的に宇宙人の魂を持っていた人が、自分がスターピープルだと気づくと、生きることが、急に楽になるのと同じこと。
つまり、日本の文化特有の非自覚的クリスチャンが、自分がクリスチャンだったと気づくと、ものすごく生きやすくなるということ。
隠れているつもりもない隠れキリシタンがいっぱいいるってことだね。多くの場合は、天使っぽい人や、自己犠牲的な精神を持つ人はだいたいそう。ニューエイジ 的な文脈でいうところの宇宙人っぽい人はだいたいグノーシス主義的思想を持つ。それゆえ、完成された啓示宗教としての三位一体の福音を知ると、とてもよく救われる。グノーシス主義は、永遠に終わりが来ないため。

Jun14

主を畏れることは知恵の初め(箴言1章7節)

今の時代は、1990年代に叫ばれていた自己実現という意味においては、すでにある程度SNSによって、かつては見えなかった人と人との繋がりや、心の内側が可視化されるようになったことで、所属の欲求、承認の欲求と、自己実現欲求が満たされる時代が来た。と同時に、個人における幸せの抽象次元があがるごとに、そもそも人間の共同体はなぜ存在するのかという根源的な問いに向き合っていくことになる。
言い換えるならば、「個々人の幸せの最大化は、果たして社会全体の幸せの最大化になるのだろうか?」という問いにぶつかる。昨今のエコーチェンバー型の問題や、中年の引きこもりの問題(80-50問題)が呈示していること、それは、単純な個の幸せの最大化は、むしろ社会的な分断を生み出しているのではないかという問いにあるといえる。
体の次元、心の次元、魂の次元と、幸せの抽象度がどんどん上がっていくことで、逆にかつては見えていなかった、霊の次元、神の次元といった壁が見えるようになってきたともいえる。
魂における欲求が満たされる時代が来ているからこそ、各々の「信念体系」による壁が見え始めてきているといえる。これは、個人における幸せの最大化の先にあるもので、ある意味自分が持つ「信念体形」による囚われの世界だともいえる。この「信念体系」の世界は、幸せになればなるほど、周囲と分断されていくという不思議な現象が起こる。この信念体系によってできる壁は、「汝の敵を愛せよ」という形でしか超えることはできない。

また、同時にこうした社会的分断によってもたらされる霊的な渇きは、個の幸せゆえに居心地がいいエコーチェンバーから抜け出す理由を作り出し、エコーチェンバーの外にある人間関係や、どの信念体験にも共通して存在するような「共通項」「普遍的な善」「一つの神」を求める動機をもたらす。これは一言でいうと「愛」ということだろう。この時初めて、人の意識は、個とは全く異なる、超越してまなざす主の視点を持ちうるようになるのだと思う。その時、初めて主というものが、人とは異なる次元にあるものだということが見えてくる。人は、決して、自分が創造主ではないということに気づく。

自らの信念体系にとらわれて、自分の世界を形作り、自らの世界がエコーチェンバー化していく中で、自分こそが創造主だと勘違いしてしまう躓きは、旧約聖書の時代では、幾度となく主の怒りに触れ、砕かれている。へブル的視点で見ていったときには、自らの信念体形にとらわれているときにこそ、主の怒りと戒めの働きが訪れる。エコーチェンバー化する今の時代は、創造主と被造物は別のものであるという神学的な事実が、ある意味明らかになっていく時代だともいえる。ゆえに、こうしたエコーチェンバー化した後に、実体験として砕かれるよりも、最初から聖書を学ぶことによって、主によって砕かれるという経験が非常に重要になるのだと思う。

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
箴言 序 1:7 新共同訳

聖書の御言葉によって砕かれる経験

実社会で砕かれるより前に、聖書の御言葉によって砕かれた方がずっとダメージは少ない。そういう意味で聖書の御言葉は、本当によく砕いてくれる。ありがたいなとしみじみ思う。主を畏れる気持ちはすごく大事。成功したいならば、自己啓発の本よりも、箴言や詩篇、伝道者の書を読んだ方がいいと思う。正しく主を畏れないと、たとえ成功したとしても、手に入れた富や名誉なんてすぐに指の間からこぼれ落ちていってしまう。

「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。 そうすれば、命の年月、生涯の日々は増し/平和が与えられるであろう。 慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び/心の中の板に書き記すがよい。 そうすれば、神と人の目に/好意を得、成功するであろう。」
‭‭箴言 序‬ ‭3:1-4‬ ‭新共同訳‬‬

主から見た400年。

イスラエルの民は、エジプトの奴隷となってから約400年後に、預言者モーセのリーダーシップのもと解放される(出エジプト記)。旧約聖書最後の預言者マラキから、バプテスマのヨハネが登場するまでの新旧両約聖書の中間時代は、ちょうど400年。また、キリスト教の根幹的教理であるところの、三位一体説も、初代教会から数えて、400年後にアウグスティヌスによって完成された。こうしたことに見られるように、400年という、人間においてはとても長く感じる年月も、主においてはよく用いられる一つの時間的単位だといえる。
日本においては、キリスト教伝来以来、江戸幕府が1612年にキリスト教禁令を出し、檀家制度をひいてから、ちょうど400年となる。今こうした意味でも、日本の新たな霊性受容と目覚めがおきてもおかしくない時期に入っていると考えられるだろう。

「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」
‭‭コヘレトの言葉‬ ‭3:1‬ ‭新共同訳

Jun16

救いの唯一性

多神教の日本人にとっては、「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」ということは何の疑問も持たずに受け入れることができる。しかしそれ故に「イエスキリスト《しか》人を救えない」という聖書が伝える真の救いに行き着かない。ちゃんと聖書を読まないと、この信仰義認という救済論の本質は理解できない。
日本の歴史は、多神教国家故に、技による救いから信仰のみによる救いというフレームに移行するまで400年以上かかっても現時点ではほとんど変わっていない。

ゆえに国民性はすべからく努力家で、勤勉だとも言える。しかしその一方で、どこまで物的に豊かになっても精神的な幸福感が低いままである理由も、救いが技によるものであって、信仰義認という背景がないために、人生が仏道修行のようなものになってしまっているということがある。

またそれと同時に、仏道修行のように生きても、その結果生涯で仏の悟りにいたるということもないのも日本人にとっての常識的な感覚。悟るなんて、まだまだです、という感覚が永遠に続くのが技による救いの文化的背景。つまり技による救いの本質はまさにこの救いの未達性にこそある。ゆえにもし悟ったということを公言でもすれば、またこれはこれで人を奢らせる理由となってしまうという問題点を常にはらむ。

【ベツレヘムの星便り】無償の愛とクリスチャニティ

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◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)
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 2019/6/16                   356号
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こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。

前回から内容を大きくリニューアルした本メルマガ。
http://www.ondorinohane.com/blog/2019/06/400.php

今回からクリスチャニティに基づき、どのようなお話をしていこうかと
考えていたのですが、そもそもクリスチャニティとは何か?
そして、それがなぜこの今週の星便りを読んでくださっていたあなたと
どんな関係があるのか?という質問に答えないといけないと思っております。

前回もお伝えした通り、私が西洋占星術師から、
クリスチャンとして新しい道を歩み始めた理由は、
「無償の愛、犠牲の愛」について、これまで以上により分かりやすく、
より深くお伝えしていきたいという思いからでした。

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「占い」でできたこと/できなかったこと 
「自分を愛すること」というメッセージを超えて
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これまでの12年間、「愛する」というメッセージについて
私が一貫して伝えてきた内容はシンプルに言うと、
「自分らしい人生を歩むためには、自分を愛することが大事」
「その中で、自分が癒され、その癒しは周囲にも及び、
人を癒していくことになりますよ」というメッセージでした。

これを週間占いや、新月満月占い、個人セッションや講座などでも、
繰り返し、繰り返し、伝えてきたわけです。

そして、2007年のスタートから12年。
気づけばこうしたメッセージは、すでに普遍的なメッセージとして、
多くの人に受け入れられ、語られる時代に変わったように思います。

この12年間で伝えられたことは、特に心理学的な価値観に基づいた
「自分を愛することが大切」というメッセージでしたが、
一方で振り返って、伝えられなかったことは、そもそも「愛」とは何か、
「無償に愛するとはいったいどういうことなのか」という
より一歩踏み込んだ内容でした。

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日本における「愛」の歴史
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そもそも日本に「愛」という言葉が一般化したのは、明治時代以降のことです。

西洋文化を受容する以前の日本においては
むしろ「愛」とは、仏教的な文脈において、
執着の気持ちを意味し、我欲と同じく、
人生の中で離れるべきネガティブなイメージのほうが強かったのです。

愛というものにポジティブなイメージが持たれるようになったのは、
英語の「love」やフランス語の「amour」などの語義が、
明治維新以降導入され、

1) キリスト教の愛の概念(アガペー)
2) ギリシア的な愛の概念(エロス・ストルゲー・フィーリア等)
3) ロマン主義小説の恋愛至上主義での愛の概念(ロマンティックラブ)

といった主に三つの異なる概念が同時に流れ込み、
現在の多様な用法となっていったのです。

この中で、私が伝えていきたい
無償の愛、犠牲の愛と呼ばれるものは、
1つめのキリスト教の愛の概念であるところの、アガペーです。

そして、この無償の愛、犠牲の愛という概念を語るうえで、
これまで何とかして星の言葉で語ることができないかと
試行錯誤してきたのですが…

結論としてはどうやっても、何をやっても無理でした。

というのも、どうしてもこの無償の愛、犠牲の愛ということを語るためには、
やはり「イエスキリスト」という存在抜きに、
語ることは不可能であるということを、最終的に悟らざるを得なかったのです。

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無償の愛(アガペー)の大切さを伝えるために
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つまり、私がずっと12年間伝えたかった無償の愛、犠牲の愛とは、
アガペーであり、これはイエスキリストが示したような、
宗教的な愛になります。

これはお釈迦様じゃダメなのか?天照大御神じゃなダメなのか?
と多神教国家の日本の感覚からすると、当然疑問として湧くことです。

しかし、僕もそう思って12年間ずっとイエスキリストの名前を用いずに、
書き続けてきたのですが…、結論としては、やはり不可能だったのです。

これは、仏教における悟りや慈悲という概念が、
開祖である釈迦という存在を抜きにして語れないように、
万世一系の天皇陛下の歴史が、天照大御神の存在を抜きにして
語れないように、

キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」の概念は、
下記の福音の三要素が前提にない限り、
絶対に説明が不可能なのだという結論にいたったのです。

福音の三要素とは、
1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること
というものです。

また、この福音の3要素を、ミッション系の幼児教育や、学校教育などで
何かしらの形で触れる機会があった人には、
たとえ細かい部分を覚えていなくても、
何の前提もいらずに「無償の愛、犠牲の愛=イエスキリストの愛」ということ
を共有できていたことにも気づいたのです。

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キリスト教における「創造主」という存在
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では、キリスト教における「無償の愛、犠牲の愛」とは一体何なのか?

それは、一言でいうと、この世界を作った「創造主」の存在が
大きく関係しています。多神教国家の日本で「神」というと、
語弊があることが多いので、
ここではこの世界を創造した唯一の「創造主」と
いったん区別して呼びましょう。

多神教国家である日本人の感覚だと、
「イエスキリスト《も》人を救ってくださる」というニュアンスで
イエスキリストを八百万の神の一柱の神として
受け入れることは何も難しいことではありません。

しかし聖書が伝えるメッセージを正しく理解しようとした時、
これは全く誤った理解となり、「イエスキリスト《しか》人を救えない」
というメッセージが正確な理解になります。
《も》から《しか》になった途端に、
日本人にとってはいよいよ難しい概念になります。

そして、この創造主と、その独り子イエスキリストを前提としないと語れない
のが、キリスト教における「無償の愛」「犠牲の愛」なのです。

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父と子と聖霊の三位一体について
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さて、なぜ聖書では、「イエスキリスト《しか》人を救えない」と考えるので
しょうか?それは、これから語る、キリスト教の神学を知ると、非常にすっき
りと分かるようになります。

聖書の世界では、創造主と、御子イエスキリストと、聖霊の3つの存在を、一
つの神としてとらえます。つまり、この世界を作った創造主と、その御子イエ
スキリストは同じ1つの神としてとらえるのです。

それゆえに、創造主が一人であるように、また創造主と同じ神である「イエス
キリスト《しか》人を救えない」と考える世界観が、クリスチャンの世界なの
です。

これは、キリスト教神学では、
父と子と聖霊の三位一体論として定義されています。
(なお、聖霊については今回語ると、さらに話が複雑になってしまうので、ま
たの機会に説明します。)

ちなみにこれは、カソリックでも、プロテスタントでも、正教会でも、
全ての宗派で採用されている考え方で、この三位一体説をとらない宗派は、
もしキリスト教を名乗っていても、
一般的に異端的信仰として区別されています。

───────────────────────────────────
キリスト教における無償の愛、犠牲の愛とは何か?
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さて、ここまでの【創造主】【御子イエスキリスト】【三位一体】を理解した
段階で、ようやく、キリスト教における無償の愛が、説明できるようになりま
す。

そもそも、「無償の愛」というのは、何でしょう?

これをシンプルに表現すれば、
「ありのままのあなたでいい」
「ありのままの私でいい」という愛だといえるでしょう。

しかしよく考えてみてください。

「ありのままの自分であっていい」といわれた時に、
「そうか、それじゃ、今日から、ありのままの自分でOKなんだな」と
もし人が簡単に思えたら、心理学や占いなんていらないし、
セラピーも必要ありませんよね。
もちろん、僕が12年もメルマガを一貫して
自分を愛しましょうというメッセージを
書き続ける必要はなかったと思います。

つまり、「ありのままの自分でいい」と思えないからこそ、
人は「ありのままのあなたでいいんだよ」というメッセージを
常に必要としてきたわけで、どこまでいってもこうしたやり方だと、
この種の罪悪感は、根本解決に向かわないのです。

この「ありのままの自分でいいと思えない罪悪感」のルーツを、
聖書では「アダムとイブの原罪」に見出しています。
この原罪は、悪魔サタンが蛇に姿を変えて、
アダムとイブをそそのかして、善悪を知る知恵の実(禁断の果実)を
食べさせたことに由来しています。

【アダとイブ】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%90

キリスト教における無償の愛とは、
創造主による「赦しの愛」です。

もし、あなたの心の中から、
「ありのままの自分でいい」と無条件で、絶対的な安心感をもって、
本当に心から思えるようになると、
どのように世界の認識は変わるでしょうか?

このことが、聖書の中のとても大事なテーマであり、
これがイエスキリストを救い主として受け入れることで得られる
「救い」の中身になるのです。

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アダムとイブの「原罪」はどのように贖(あがな)われたのか
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さて、それでは、
アダムとイブによって人類に伝播していった
「原罪」はどのように贖(あがな)われたのでしょうか。

これは、旧約聖書の時代の当時の風習までさかのぼらなければ、
うまく説明することができません。

このアダムとイブによってもたらされた人類の原罪は、
旧約聖書においては、年に一回の過越祭(すぎこしさい)とよばれるお祭りに
おいて「動物の生贄(主に子羊だった)」を屠り(殺して)、その血を創造主に
捧げることによって、一時的に覆い隠せるものとしていました。

つまり、罪を贖うためには、「生贄の血」が必要だったのです。

また、さらに、創造主は、動物の生贄とは比べ物にならないほどの、
とても厳しい犠牲を求められることもありました。
それは、ユダヤ人の祖、アブラハムが、堕落した人々の罪を贖うために
自らの子供イサクを生贄にささげよと告げられた時のことです。
自分の子供を捧げるというのはなんと、厳しく残酷なことでしょうか。

しかし、もちろんこれは後日談があります。
苦渋の決断ながらも、それを創造主への愛ゆえに素直に受け入た、
アブラハムとイサクの姿を見た主は、その信仰の深さを見て、
イサクが生贄として屠られるギリギリでそれを撤回しました。
あくまで創造主は、アブラハムの子孫を創造主の民として選ぶべく、
その信仰心を試したのです。

そしてこのアブラハムとイサクの生贄の話は、
新約聖書のキリストイエスの十字架による罪の贖いの
重要な伏線になっているのです。

実はこの段階で、創造主は、自らの独り子であるイエスキリストを
人間の姿で地上に遣わせ、人類の原罪を贖うための「生贄」として
屠ることを考えておられたわけなのです。

ちなみにイエスキリストが十字架の上で、創造主の子羊(神の子羊)
として屠られたのは、この年に一度の過越祭と全く同じ日なのです。
この日をキリスト教ではイースター(復活祭)と呼んでいます。
最近、日本でもイースターが祝われる機会が増えてきましたが、
まさにこれが先ほどの過越祭と同じお祭りなのです。

つまり、創造主は、罪なき我が子を、
人類への愛ゆえに生贄として捧げられたのです。

子供を持つ親の気持ちになっていただくと、この創造主の愛がいかに
深い愛なのかを感じ取っていただけますでしょうか。

そして、こうした創造主による一方的な恵みの愛によって、

1)イエスキリストが私たちの罪のために十字架の上で死なれたこと
2)墓に葬られたこと
3)3日後に復活し、今も生きておられること

を信じることで、私たちは、原罪から解放されることになると、
聖書は教えているのです。

そして、これによって救われた人は、
創造主と主イエスキリストを愛し、そして、
創造主や、イエスキリストが示してくださった無償の愛、犠牲の愛のように、
周りの人たちを愛しなさいと伝えるのです。

───────────────────────────────────
「イエスキリストが示して下った」という前提
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確かに、ここまでしっかりと背景を説明しないと、
キリスト教の「無償の愛」「犠牲の愛」の意味は分かりにくいですよね。

でも、これは、海外の人たちに向けて
釈迦抜きに仏教における「悟り」や「慈悲」を説明することが難しいように、
あるいは、神道において、天照大御神抜きに、
天皇家の歴史を説明することが困難であることとと、
全く同じことだといえるでしょう。

僕自身これまでの活動の中で、無償の愛というテーマについて、
伝えたいメッセージを伝えるために、12年もかかってしまったのは、
つまりはこういうことだったのです。

それは、無償の愛の背景にある
「イエスキリストが示してくださったような」という前提を
自分自身が持っていたことに気づけなかったということなのです。

そして、今、12年目に自らクリスチャンだったということを
信仰告白という形で、しっかりと自己言及できたことによって、
ようやく今、このことを正確に伝えられる体制ができました。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる
者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わさ
れたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書 3:16-17 新共同訳

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クリスチャンとしての前提をシェアできることで、開かれる世界
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さて、今日は、キリスト教神学のコアにある三位一体、イエスキリストの十字
架の贖い、福音の三要素についてお話をしました。

こうやって神学的な背景を理解できるようになると、今までなんとなく海外の
宗教なんだなとか、自分とはなんだか縁が薄い文化だなと考えていたキリスト
教や聖書の世界も、なるほどちょっと自分自身とのパーソナルなつながりが見
えてきて、興味が湧いてくると感じていただけるかもしれません。

これはちょうど12年前に、ホロスコープ占星術が全くといっていいほど市民権
がなかった時代に取り組んでいた文化的発信と、とても似ているような気がし
ます。願わくは、12年後にキリスト教の世界観が今の占星術が市民権を得たよ
うに広がってくれたら、ひとりのクリスチャンとしてとても嬉しいです。

そして、そもそも世界中で30%の人が信じているとされるキリスト教ですか
ら、そもそも神学の構成としては、決して複雑なものではないのです。もしそ
れが複雑な神学であれば、人から人へと伝わっていかないですからね。
そして、福音の三要素を信じるだけで救われるというシンプルさ(これを信仰
義認といいます)も、聖書の世界が持つ大きな救いの特徴であり、魅力です。

このキリスト教の背景が理解できると、私が一番伝えたい「無償の愛」の概念
が伝わるというばかりでなく、同時に、西洋の美術や芸術、文化、哲学、政治
など、様々な側面への異文化理解が深くなるのではないかと思います。

こうしたキリスト教という切り口で、新しく開かれる世界を、楽しみながら、
学んでいけるお話を、このリニューアルしたメルマガでは毎週お届けしていき
たいと思います。

今日も、前回に引き続き、長いメッセージとなってしまいましたが…お付き合
いいただきありがとうございました。

今週も、あなたにとって素敵な一週間になることを、
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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メールマガジン【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便
り)
発行者:杉本譲治
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▽今週もあなたにとって素敵な1週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。アーメン。

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Jun18

日本における福音伝道のためのコアジェネレーションとして

日本の場合、1612年に江戸幕府によって敷かれた檀家制度というのは、キリスト教的思想が広がらないための鉄壁の守りになっている。基本、「うちの宗教は真言宗なので…」「うちは浄土真宗でして…」という形で、特段その宗派に対する専門的な知識や、自発的な信仰心がなくとも、ひとまず外側の信仰を受け入れる必要が一切なくなる。また檀家制度は冠婚葬祭に深くつながっていて、日本の家制度ゆえに、これはファイアーウォールとして日本に異教的なものを一切入れないために非常に有効に機能してきた。その意味で、日本において地域教会主義をとりながら伝道活動をすることは、普通に考えて不可能に近い。ゆえにその時代から変わらず日本におけるクリスチャン人口は、ずっと1%で推移していっている。このあたりをすでに明治期に見抜いていた内村鑑三は、無教会主義という日本独自の信仰形態を考え出す。これはある種の日本的なキリスト教受容のベースとなる考え方で、本来地域教会は、諸外国においては福音を伝えるために、クリスチャンが集い、有効に機能する場所であったはずが、檀家制度において鉄壁の守りが敷かれている日本においては、むしろこの地域教会を中心とした伝道活動が弊害となって広がらないという側面があるのだと思う。これはおそらく所与のものとしてキリスト教が与えられている諸外国からは理解できないし、見えない構造だろう。むろん、日本の地域教会が悪いということでは全くなく、むしろそのシステム的制限のゆえに、福音が広がらないなかで宣教活動をするという苦労を、先人たちは十字架のように背負ってきたのではないかと思う。ゆえに、今の日本の地域教会は疲弊してしまっていて、高齢化が進んでしまっているし、後継者も少なく存続自体が危機的な状況にあるところも多いと聞く。
日本独特の十字架を背負いながらも、その福音の命脈を保ち続けてきた先人たちの苦労は、インターネット時代、情報化時代で、人が集い、福音について学び、主に祈るための場が、「地域教会としての建物」である必要が無くなった今、報われるべきなんじゃないかと思う。新しい時代の新しい宣教活動のベクトルが出てきてもおかしくない状況だといえるだろう。僕のような人たちはそうした新しいクリスチャン世代、コアジェネレーションになっていくのだと思う。
今の時代はインターネットやSNSを中心として、地域教会に所属しない日本的な無教会主義のクリスチャンが生まれていく土壌がしっかりとある。僕が現時点であえてどこかの地域教会に所属していないのも、決して地域教会の軽視ではない。むしろ、その強い信仰心、主を愛する気持ちゆえに、日本におけるクリスチャニティが広がることを念頭に置き、この檀家制度という鉄壁のブロックを意識した時に、日本における宣教活動は、無教会主義でないとなかなか難しいのではないかと思うがゆえ。もちろん僕としては、日本全国の地域教会をはじめとした、すべてのクリスチャンとつながり、主の栄光を讃える気持ちの中にあるし、日本においてイエスキリストへの信仰が広く受け入れられるべく、自らを主のために献身できたらこの上ない喜びである。檀家制度が敷かれ、それが常識となっている日本において、キリストへの信仰というのは、最初の入り口は、地域教会を介在させた外的な召命ではなかなか難しく、無教会主義に基づく、内的な召命、つまりイエスキリストとの直接的な関係の中でこそ広がっていくのだと思う。内村鑑三が、考え抜いた結果作り出した無教会主義は、日本の宣教活動において、非常に重要な思想的なOSになるのだと思う。

「イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」」
マタイによる福音書 28:18-20 新共同訳

Jun19

キリスト教と自由主義神学

神学者のジョン・グレッサム・メイチェンの、キリスト教と自由主義神学の違いの定義がわかりやすい。以下引用。

「それゆえに自由主義はキリスト教とは根本的に異なるものであるということは不可思議ではない、何となればその土台が異なるのであるから。キリスト教は聖書の上に建てられる。それはその思惟と生活とを共に聖書の上にすえる。しかるに他方自由主義(リベラリズム)は罪深き人間の移りゆく情緒の上に建てられるのである。」
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/キリスト教と自由主義神学

近代心理学もそういう意味で当時、自由主義神学が全盛だった時代の産物なんだよな。
また、今は、SNSの台頭によって、超個人主義化、心理学化していく中で、このよって立つ土台が揺らいでいるといえる。「罪深き人間の移りゆく情緒の上に建てられる」というのは心理学全般においていえることだと思う。時代精神が個人主義化し、同時に心理学化すればするほど、人は結果的に神学的な問題であるところの、原罪というテーマに向き合わなきゃいけなくなるんだよな。

Jun20

創造主から届いたラブレターとプレゼント

日本人の感覚で言うと、仏教の影響で、宗教=修行なんだけど、聖書は修行しなさいとは一切書いてない。というか、パリサイ人の厳格で、修行的な姿勢をイエスが痛烈に批判するように、むしろそうしたものは人間の傲慢さだと退けられている。
また、日本においては、キリストの十字架とは、仏教の修行のようなものととらえる大きな誤解もよくある。十字架での死が、仏教の滝行のエクストリームバージョンか何かだととらえられている場合も多い。ちゃうちゃう。イエスの十字架が示すのは、私の代わりに死んでくださって、人生の罪悪感から解放してくださるという恵みの愛であって、修行の手引きや象徴じゃない。
聖書が教えていることは、神様があなたをどんな時でも愛しておられるということ。簡単にいうと聖書とは、修行の本ではなく、ラブレターだということ。キリストの十字架での贖いも、修行ではなく、御返しのいらない愛のプレゼント。
ラブレターとプレゼントがポストに届いているのに、学校の宿題が届いたと勘違いして、400年も開いていない状態にあるという不思議な状態にある。
好きな相手のために、めちゃくちゃ修行しているのに、実はその相手からは、とうの昔にラブレターとプレゼントが届いているという不思議な状態にある。不器用にもほどがある。

江戸幕府によるキリスト教禁制も、いうなれば、受験期なのに、うちの子が、好きな人からラブレターとプレゼントが届いているなんか知ってしまったら、恋にうつつして、勉強しなくなる。親(この世の神・幕府)のいうことを聞かなくなるから、とんでもない、知らない間に取り上げてしまいましょうということが、400年前にあったということなんだよね。
そして、檀家制度を通じて、その人個人の信仰心とは一切関係なく、強制的にあなたはこの人に嫁ぐことになるのよ、将来に関して何も心配いらないと、地域のお寺といういいなずけをすべての人につけたということ。
旧約聖書の雅歌に歌われている通り、創造主と人との関係は、本来、エデンの園においては、相思相愛のラブロマンスのようなものだったからね。


「若者の歌
恋人よ、あなたをたとえよう/ファラオの車をひく馬に。 房飾りのゆれる頬も/玉飾りをかけた首も愛らしい。 あなたに作ってあげよう/銀を散らした金の飾りを。

おとめの歌
王様を宴の座にいざなうほど/わたしのナルドは香りました。 恋しい方はミルラの匂い袋/わたしの乳房のあいだで夜を過ごします。 恋しい方は香り高いコフェルの花房/エン・ゲディのぶどう畑に咲いています。

若者の歌
恋人よ、あなたは美しい。あなたは美しく、その目は鳩のよう。

おとめの歌
恋しい人、美しいのはあなた/わたしの喜び。わたしたちの寝床は緑の茂み。 レバノン杉が家の梁、糸杉が垂木。」
雅歌 1:9-17 新共同訳

日本独自の教会形成論の必要性

日本の歴史と、欧米の歴史が違い過ぎて、キリスト教受容といっても、内村鑑三の無教会主義という考え方のように、日本独自のキリスト教神学を形作る必要があるんだなと感じる。特に教会形成論は非常に重要だ。ただ海外からの教会形成論を方法論として援用したところで、日本だとほとんど何の意味もない。歴史的な背景が違いすぎるから、クリスチャニティがしっかりと受容されるためには日本独自の教会形成論の確立が欠かせないんだと思う。その意味でもキリスト教界が、日本の幼児教育や学校教育に注目したのは大きいのだろうね。長い時間をかけて、文化を受容するための「人」から作っていったといえる。そうしたことが日本のキリスト教受容の今後の重要なベース、内的召命の源泉になっていくんだと思う。

Jun21

聖書の注解書

聖書の注解書を調べていたら、チャールズ・スポルジョン「良い注解書はコートを売ってでも買いなさい」という言葉に出会った。美しい言葉だ。

キリスト教神学の奥深さ

聖書註解書や聖書辞典などを色々調べていると、キリスト教神学の奥深さをしみじみと感じる。

キリスト者は、永遠に生きている。

キリスト者は、永遠に生きている。つまり、パウロ、アウグスティヌス、カールバルド、ウェスレー、内村鑑三など、これまでのキリスト教神学の礎を築いてきた神学者たちも、リアルに生きている。そういう実感を、神学を学んでいるとかなりリアルに感じる。古い時代の本でも、全く古さを感じないばかりか、むしろ彼らが今ここで語っているような感じがする。
これはそもそもどの時代の人も全く同じ創造主の言葉である「聖書」というものをベースにした思索を重ねているからなのか。寄って立つ言葉がすべて同じ聖書の御言葉なので、時代を超える。創造主の言葉というのはすごいな。。

Jun23

【ベツレヘムの星便り】愛の書としての聖書

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◆【ベツレヘムの星便り】(旧:ユピテルジョージの今週の星便り)
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 2019/6/23                   357号
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こんにちは、杉本譲治(旧:ユピテルジョージ)です。
いかがお過ごしでしょうか。

この6月は、クリスチャンとしての信仰告白をして、
長年携わってきた占星術師としての歩みを辞めて、
福音を伝えていくという道へと進み始めました。

さて、僕自身がこれからの活動の中で、お伝えしていきたいメインテーマは、
イエスキリストが示された、無償の愛・アガペーについて。

このアガペーという愛を知ることについて、聖書はこのように述べています。

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キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、
そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、
それによって満たされるように。
(エフェソの信徒への手紙 3:18-19 新共同訳)
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私たちは、知らないことは、行動に移すことはできません。
逆に、知っていることで、初めてその考えを行動に移すことができます。

聖書はそのような、普通に生きていたら知りえないような、
「広さ、長さ、高さ、深さを持った愛」の在り方を学ぶために、
幾千年もの間読み継がれてきた「愛の本」なのです。

さて、聖書で伝えられるイエスの愛は、
一言でいうと「汝の敵を愛せよ」という愛です。

イエスはルカの福音書においてこのように語られています。

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しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あな
たがたを憎む者に親切にしなさい。
悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。
あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。

上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。 求める者には、だれに
でも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。
人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろう
か。罪人でも、愛してくれる人を愛している。 また、自分によくしてくれる
人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをし
ている。
返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人
さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしない
で貸しなさい。
そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、
恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさ
い。」
ルカによる福音書 6:27-36 新共同訳
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この言葉の中にある「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」を
感じとってみましょう。

そして、このような立体感のある愛をどのように、
日々の生活の中で適応していけるだろうかと
思いめぐらしてみましょう。

特に今の時代は、SNSの台頭によって、
価値観の合う人とはどんどん距離が近くなる一方、
価値観が異なる人とは、さらに距離ができてしまう時代です。
SNSが登場する以前に比べて、人間関係が深まっているように見えて、
その実、むしろ逆に異質な価値観を持つ相手との関係性は、
希薄になっている時代ともいえます。

あなたの愛の価値観の中に
「汝の敵を愛せよ」という要素を入れてみると
どのように世界の見方は変わるでしょうか?

こうした営みを、長い歴史の中で人類を見守ってきた
聖書の御言葉に触れることは、私たちに忘れていた
人として大切な視点を与えてくれます。

さて、次回以降、ややもすると分厚くてとっかかりにくい
聖書を、どのように読んでいけばいいかについて
語っていきたいと思います。

今週もあなたにとって、素敵な一週間になりますように。
父と子と聖霊の御名において、お祈りいたします。
アーメン。

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Jun25

日本におけるキリスト教受容について

日本におけるキリスト教の受容について考えるとき、昔(地域によってはいまも)海外旅行に行く時に変圧器や変換アダプターが必要だったように、聖書の世界を紹介する時(特に個人の生活に適応する時)は、いったん概念や言葉の変圧器が必要だなと思う。特に多神教国家の日本においては、一神教の世界というのは、非常に誤解を受けやすいし、あまりにも文脈が違うので、変換アダプターや、変圧器が必要。日本の牧師の役割は、こういう異文化受容のための変圧器としての役割、自覚が求められるのだと思う。

そういう意味で日本における新しい内村鑑三のような存在にならないといけないなと思う。主の栄光を讃えるために献身に励みたい。
いきなり聖書を読んでも、言うなれば、コンセントの形や電圧が違うので、そのままだと動かないんだと思う。占星術などの場合は、そもそも惑星という地球どこから見ても同じ共通の天体があるため、これが変換アダプターになるんだよね。
じゃぁ聖書における変換アダプターとは?それは「無償の愛」という概念でしかありえない。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」
‭‭コリントの信徒への手紙一‬ ‭13:4-10‬ ‭新共同訳‬‬

「普遍的な無償の愛の価値観」これが、個人生活の適応において、重要な変換器になる。

そういう意味で聖書の読み方の個人的なアドバイス、生活の適応こそが、今僕がやるべきことなんだなと思う。結局自分とイエス様との個人的な関係を結んでいくことが確実な救いになるので。そういう意味で日本の場合は、海外では一般的にうまくいく教会主義は、むしろアダプターとして機能せず、むしろこうした無教会主義の牧師が、個人的な相談に乗って、イエス様と自分とを直接繋げてくれる媒介役に集中した方がいいのだと思う。

結局言語的障壁、文化的障壁というよりも、イエス様との「個人的な媒介役」が必要。救いにおいて、重要なのは福音の三要素を信じることであって、教会主義はむしろ日本では本来の目的と逆の効果を持ってしまっている部分があると思う。
占いやカウンセリングに行くよりも、まずは聖書を開いて直接主に尋ねたり、牧師に相談した方がいいという欧米圏での一般的な常識を、こうした個人的な媒介役として、もっと日本でもうまく受容できればいいなと思う。

占星術家だった時代に、海外に行くと、海外の占星術家に言われたのは、「お前の国では、占星術家というとさけずまれないのか?ということだった。その時にはあまり意味がわからなかったのだが、キリスト教圏では占いはサタンの影響下にありそれに頼ることは禁忌であることは常識となっていて、そういう考えと常に占星術家は戦っていた。日本にはこういう緊張は全くない。今となってはよくわかるが、確かに占星術よりも聖書の世界の方がずっと霊的に完成されているため、たしかに海外の感覚はたしかに正しい。そして海外の占星術の世界もあくまで意識的であろうが無意識的であろうがキリスト教的なベースの上に成り立っているからこそ、サタンの影響が入らないようにという緊張の中で学問化、客観化されてきていると言える。

旧約聖書においても、占いは、厳しく禁止されている。

「あなたの間に、自分の息子、娘に火の中を通らせる者、占い師、卜者、易者、呪術師、 呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。 これらのことを行う者をすべて、主はいとわれる。これらのいとうべき行いのゆえに、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるであろう。」
申命記 18:10-12 新共同訳

また、新約聖書においても、占いは、禁忌とされている。つまり、キリスト教世界において占いは禁忌ということは、海外における常識であって、もちろん占星術師もそれを意識して、いかに占いではなく、学問、心理学なのかという形でアカデミック化していこうとする歴史的背景がある。

「わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。 彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」 彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。 ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。」
使徒言行録 16:16-19 新共同訳

また海外の占星術家と触れてよく言われたのが、アメリカではそもそも占星術家はもちろんのこと、カウンセリングよりも、だいたい何かに悩んだ時も、最初は皆教会に行って牧師に相談して解決しちゃう。だからすごく大変だ、と言っていた。占星術師の視点から見るとたしかにそうなんだが、逆にいうと牧師の役割ってすごく大きいという意味でもある。海外だと逆にそうやって機能していない教会の受け皿としてカウンセリングや、時によって占星術師がいると言えるのだと思う。
海外から直接ニューエイジ や占星術を点で受容しているがためにこの辺の面的な常識が日本には受容されていない。この辺りは今後の活動において非常に重要な要素になっていると思う。

日本はようは、悩んだ時に、「お寺や神社に行ってお坊さん、神主に相談しよう」とはならないからね。なので神様や仏様にお参りに行くし、そういう存在の具体的な声を知りたいという感覚で、占い師や霊能者、最近だとカウンセラーに相談するのだと思う。しかしそもそも占い師や霊能者、カウンセラーが確かな救済神学に基づいているかというと、そもそもその背景にある神学は、あくまでサタニックな影響を防げない教理的な欠陥構造を持っているニューエイジ 的なもの、あるいは神の存在を前提にしない自力救済の心理学になってしまうんだよね。

しかも今は特にSNSの時代で誰しもが自称カウンセラー、占い師として、こうしたサタニックな影響を防げないニューエイジ 的な神学に無自覚で、プチオウム(オウムもニューエイジ の影響下にあった)のような、エコーチェンバー化した集団による、カルト的被害が拡大していってしまっているのが日本の現状だと言える。


日本の教会の共通の課題―高齢化

日本の教会に行ったときにものすごく感じた違和感、危機感は、教会の日曜礼拝に、おじいちゃんおばあちゃんしかいないこと。どの教会も高齢化が進んでいるらしい。これはいかにキリスト教理解が、初期の明治時代のクリスチャニティの受容あたりで止まっているかということでもあるし、70年代以降、いかにニューエイジ的文脈、つまりサタニックな影響のほうが強いかということでもある。たぶんこれまでの経験上、今の日本の40代の女性の1/4くらいの人が、ニューエイジ的・スピリチャルな文化の中にいると思うけれど、こうなったのも、オカルトがスピリチャルと呼ばれ始めたこの十数年の話。実際に教会に行って、強く感じたのは、これからは僕の世代が立たないといけないなと強く感じた。日本のクリスチャニティは非常に危機に瀕しているのではないかと思う。もちろんその中で日本特有の十字架を背負って霊的な戦いに臨まれていらっしゃるクリスチャンの皆さまに敬意を込めながら。。。

「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。 だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。 立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、 平和の福音を告げる準備を履物としなさい。 なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。 また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。 わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。」
エフェソの信徒への手紙 6:10-20 新共同訳