Jun14

主を畏れることは知恵の初め(箴言1章7節)

今の時代は、1990年代に叫ばれていた自己実現という意味においては、すでにある程度SNSによって、かつては見えなかった人と人との繋がりや、心の内側が可視化されるようになったことで、所属の欲求、承認の欲求と、自己実現欲求が満たされる時代が来た。と同時に、個人における幸せの抽象次元があがるごとに、そもそも人間の共同体はなぜ存在するのかという根源的な問いに向き合っていくことになる。
言い換えるならば、「個々人の幸せの最大化は、果たして社会全体の幸せの最大化になるのだろうか?」という問いにぶつかる。昨今のエコーチェンバー型の問題や、中年の引きこもりの問題(80-50問題)が呈示していること、それは、単純な個の幸せの最大化は、むしろ社会的な分断を生み出しているのではないかという問いにあるといえる。
体の次元、心の次元、魂の次元と、幸せの抽象度がどんどん上がっていくことで、逆にかつては見えていなかった、霊の次元、神の次元といった壁が見えるようになってきたともいえる。
魂における欲求が満たされる時代が来ているからこそ、各々の「信念体系」による壁が見え始めてきているといえる。これは、個人における幸せの最大化の先にあるもので、ある意味自分が持つ「信念体形」による囚われの世界だともいえる。この「信念体系」の世界は、幸せになればなるほど、周囲と分断されていくという不思議な現象が起こる。この信念体系によってできる壁は、「汝の敵を愛せよ」という形でしか超えることはできない。

また、同時にこうした社会的分断によってもたらされる霊的な渇きは、個の幸せゆえに居心地がいいエコーチェンバーから抜け出す理由を作り出し、エコーチェンバーの外にある人間関係や、どの信念体験にも共通して存在するような「共通項」「普遍的な善」「一つの神」を求める動機をもたらす。これは一言でいうと「愛」ということだろう。この時初めて、人の意識は、個とは全く異なる、超越してまなざす主の視点を持ちうるようになるのだと思う。その時、初めて主というものが、人とは異なる次元にあるものだということが見えてくる。人は、決して、自分が創造主ではないということに気づく。

自らの信念体系にとらわれて、自分の世界を形作り、自らの世界がエコーチェンバー化していく中で、自分こそが創造主だと勘違いしてしまう躓きは、旧約聖書の時代では、幾度となく主の怒りに触れ、砕かれている。へブル的視点で見ていったときには、自らの信念体形にとらわれているときにこそ、主の怒りと戒めの働きが訪れる。エコーチェンバー化する今の時代は、創造主と被造物は別のものであるという神学的な事実が、ある意味明らかになっていく時代だともいえる。ゆえに、こうしたエコーチェンバー化した後に、実体験として砕かれるよりも、最初から聖書を学ぶことによって、主によって砕かれるという経験が非常に重要になるのだと思う。

「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」
箴言 序 1:7 新共同訳