Jun01

主を愛すること

昨今のスピリチャリティや心理学、自己啓発についての論説を見ていると、何の吟味もせず、「在り方=自分を愛すること」という話ばかりで非常にうんざりする。おそらくアドラーや、エーリッヒフロムの影響を受けた論説が、SNSの伝言ゲームのなかで、どんどん本来の形から離れていってしまって生まれた論説。
自分を愛するということをベースとなる心理学的な原書を読んで吟味しているのだろうか?浅はかな伝言ゲームに踊らされていないだろうか。あるいは自らそうやって伝言ゲームの一人として、伝えていないだろうか。
自分を愛するという論説は、ともすると、単に自分で自分を良しとする、ただの「自己義認」という大きな罪になりうることを知らないといけない。
聖書を学べばすぐにわかることだが、自己義認の姿勢は必ずといっていいほどその人を破滅に追いやる。
特に現代においては、3つの破綻においやっていく。経済的破綻、人間関係の破綻、道徳的な破綻だ。こうした霊的な危機に陥っている人が、なお、これは「自分を愛することが足りないんだ」という間違った信念で、どんどん深みにはまっていき、さらに周囲にも被害は拡大していくということが今起きているのだと思う。とても悲しいことだ。最悪の事態になる前に、一歩立ち止まって考えてほしい。謙虚な気持ちで、自分の自己義認の過ちを悔い改めてほしい。
セラピストとして一番大事なことは、キリスト教精神のように、人を無償に愛せるようになること。自分が笑顔になることでもなく、自分が心地よい気分になるのではなく、主の愛の視点で考えることが大事。主の思いに沿っているのだろうか?どれだけ相手に献身できているだろうか?と問い直すことが大事。人を無償で愛せなくて、どうしてセラピストになれるのだろう?本当に、不思議で仕方がない。
無償の愛の背景には献身があり、献身とはつまり、キリスト教精神に基づいて、主が自分の人生の主体であることを明確にする行為だ。その上で、イエスキリストに少しでも近づこうと、義の奴隷として自らの人格を磨き、人を愛すること。これが、人格の陶冶だといえる。すべてのベースには、主への信仰がある。
「在り方=人格主義」だという当たり前のことを本当に強調しないといけないと思う。
献身の心をもって社会的なリーダーになっていくには、主への信仰心を持ち、人格を磨くしかない。そして、人格を磨くには、いかに見えないところで、日々祈り、人や社会に献身するかではないだろうか。
主は、聖書の言葉の中で、自らの人格を育てることを一番大事にしていらっしゃる。そのためには非常に厳しいことも求められる。人格の土台ができていないのに、霊性を扱うことは、まだ何も知らない子供に刃物を持たせて遊ばせるようなもの。
僕自身も、これまでの活動の中で、「他者を無償で愛せる人を育成する」ということを軸にしてきたつもりだったのだが、結果的にこうした日本の霊性に誤った文脈を作る原因を作る一人の主体だったということは、本当に悔い改めないといけないと思う。最近は、そもそも前提としてセラピストや占い師を育てるという焦点そのものが間違えていたことがよく分かってきた。大事なことは、「人を育てること」なんだなと。心理学や占星術といった「技術」では、人格は育たない。キリスト教精神というベースとなる人としてどうあるべきかという思想に基づかないと、「人は育たない」ということがよく分かってきた。
そういう意味でも自分自身の長年の罪を深く悔い改めて、キリスト者として、霊的に正しいメッセージを伝えていきたいと思う。
天におられる父よ、日本の自己義認に基づく誤った霊性を、信仰義認という正しい方向性へと導いてくださいますように。父と子と聖霊の御名においてお祈りいたします。アーメン。