Jun04

エコーチェンバーのフィルターバブルを乗り越える「献身の愛」

クリスチャンとして生きるということは、イエスのように、相手の(場合によって「汝の敵」の)十字架をいかに背負って、自らを献身的に自らを生贄として主にささげ、相手の罪が福音によって贖れることを願うかというテーマになるんだよな。むろんこのベースには、福音を伝えるという明確な目的があり、ゆえにベースとしての信仰告白(イエスを救い主として受け入れていることを公にすること)はすごく大事なんだよな。信仰告白がないと、相手の罪が赦されるのを願って、相手に捧げる犠牲の愛が、主への生贄にならないからね。つまり、何のために、無償に愛しているのかが伝わらない。こういった信仰告白をしていないことによって起こる失敗は、実にたくさんしてきたなと、振り返って思う。逆に信仰告白をした今は、非常に安心。
こうしたことが、聖書的に見た、無償の愛や犠牲の愛の論理的な根拠になるんだよね。そして、確かにこの論理でないと、結局のところ福音は広がらないのも確か。つまり、福音宣教とは、信仰告白をした後、いかに社会や他人に対して、相手の十字架を背負うかということにかかってくるんだよな。むろん、こうしたことも、自分自身が主イエスキリストによって、救われたという実感があるからこそできること。エコーチェンバー化する時代においては、このクリスチャニティに基づく献身の愛こそが、結局のところ、見えない壁(フィルターバブル)を、一番乗り越えるすべになるんだよな。
ドフトエフスキー「白痴」におけるムイシュキン公爵も、ようは彼は、キリスト者としての自覚がなく、また信仰告白もしなかったため(もともとクリスチャンという設定では無いが)クリスチャン的な犠牲の愛に生きながらも、理解されず、周りを巻き込んで、悲劇を生み出したんだよな。信仰告白をした今となっては、しみじみよくわかる。クリスチャンにとっての信仰告白はとても大事なんだな。