Jun05

主に与えられた賜物と、サタンに送られた棘

なんだかんだ果てしない人生に対するそこはかとない前向きさと強い情熱を賜物として主に与えられていることに気づく。純粋な思いで人助けをしたいという想いに生きてきたからこそ歩めた道。それでも長く続けていれば、そもそもアプローチが間違えていて人生の目的に届かないものもある。アプローチは改善すべきで、これまで築いてきた確かな基盤を全て投げ打ってでも、今度は福音宣教に全生命力をかけられる。人生の時は有限だ。人はマモン(お金)と神の両方に仕えることはできない。主の召しに応えて進む幼子のような純粋さという賜物を主に頂いたことに感謝しかない。人によって僕の目標に向かう時の行動が時に狂気じみたように映るのも、主の召しに純粋に応えたいという思いに生きているから。キリストイエスの犠牲の愛が精神のコアになければ、こうした純粋な、時に他人にとっては狂気的にしか思えない愛で、自らを献身する行動原理は持ち得ないと思う。
霊的な献身ではなく、マモンに仕えるような、今の堕落した日本の霊性文化に対する怒りを、批判や否定的なエネルギーではなく、主に与えられた賜物である持ち前の情熱と創造のエネルギーで、どれだけ日本の霊性向上のために、自分の十字架を背負えるか、献身を続けていきたいと思う。全生命をかけて、主の召しに応え、主に使えていきたいと思う。確実に燃えてきた。
こうした情熱は、結局のところ、初代教会や、ルター、カルヴァンに通ずるものがあるのだと思う。そもそも日本の教会文化も、どこまで宣教に本気の覚悟を持てているのかということを思えば、目覚めないといけないのではないかと思う。真剣に、イエスキリストの十字架を日本の霊性向上のためにどこまで背負えるかが大事なんだと思う。僕は全生命をかけて、不可能に挑みたい。主を賛美し、100%の愛に生きるために。
ニューエイジ に生きていたということはクリスチャンとしては棘でしかない。クリスチャンとしては最も低きものとして、思い上がることのないように、その低さゆえに謙遜にならざるを得ない棘。そして、幼子のような信仰心によって、無私の心で生きていきたいと思う。アーメン。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
‭‭コリントの信徒への手紙二‬ ‭12:7-10‬ ‭新共同訳‬‬

「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。 愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。 わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
コリントの信徒への手紙一 13:1-13 新共同訳