Jun08

クリスチャンになることとは、出家ではない。

まぁ、そもそも日本人は、どんな神様でも寛容に迎え入れる多神教だからこそ、クリスマスを普通に祝えるんだよな。この感性自体が、そもそも日本独特のキリスト教の信仰形態、「無教会主義」につながっていく部分がある。
よく勘違いされるのだが、クリスチャンになるっていうのは、そもそも日本だと「出家する」くらいの感じで重く受け止められることが多い。それこそ、教会は、お寺のような修行の場だとさえ勘違いしている人もいる。クリスチャンになるといろいろと戒律がすごいんじゃないかとか、勝手に勘違いしてしまう。
しかし、そんなわけがなく、あくまで単純に「イエス様を私個人の救い主として受け入れます」ということ。修行なんて要素は全くなく、信仰だけによって、救われる。あまりのシンプルさに拍子抜けすると思う。正確には、イエス様が自分の罪のために死なれて罪を贖ってくださり、墓に葬られ、3日後に復活され、今も生きておられるという「福音」を信じるだけで救われる。

そもそもキリスト教では、仏教や神道などのように修行という要素を完全否定しているし(信仰義認)、日本人が「宗教」と聞いて思うような厳格な律法主義的要素はほとんど、というか全くない。むろんシナイ契約にてもたらされた、十戒という律法はあるが、あくまで律法を守ることによって救われるというわけではなく、救われた結果、自然に聖化と呼ばれる罪の浄化が進むことで、おのずと、自らの意志で罪から離れていけるようになるのだ。
ただただ、イエス様を自分の救い主として信仰すること。これだけで、能力や努力と全く関係がなく、救いが得られるというとてもシンプルな構造。しかもその救いは永続的なものであり、最終的には仏教でいうところの「悟り」へと、栄化、聖化を通じて、イエス様が主体となって導いてくださるというとてもありがたい教理なわけだ。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、」
コリントの信徒への手紙一 15:1-4 新共同訳