Jul03

日本のニューエイジの問題点

日本のニューエイジ(いわゆるスピリチャル)の中でよく言われる、

・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある

こういった考え方は、すべからく汎神論になる。
しかし、そもそも、日本においてこうした論説が、汎神論であるという自覚はほぼ持たれていないのではないかと思う。

日本の神概念は基本的に汎神論である。八百万の神というよりも、汎神論というフレームで見るとより理解しやすい。あくまで八百万というのはたくさんのという意味で、つまり路傍の石も、大空の雲も、大地も、海も、動物も、あの人も、私も、全てが神のエッセンスを持っているという考え方を、汎神論という。

また、仏教も同様の汎神論である。自他の境界を越えて全てが我であり、その我を超えるという仏教の悟りも汎神論となる。

ちなみに、この汎神論が、人間の理性で構造的にとらえられるという考え方が、理神論となる。科学やグノーシス主義はこの汎神論の延長線上にある、理神論的なフレームとなる。

また、最近流行りの、パラレルワールドという考え方は、汎神論から発展した、唯心論、唯識論、汎経験論なフレームといえる。

ここで非常に重要なことは、これらはすべて一神教的な考えの反対の極にある考え方であるということ。
また、そもそも日本で生まれるとこうした汎神論的なフレームが当然の考え方になるため、無自覚に汎神論優位主義を取ってしまうという過ちを犯しやすいということだ。つまり、汎神論は、一神論に勝るという考え方にしばしばよく陥る。
日本人が持ちやすい汎神論優位主義は、結局のところ、そもそも新旧両訳聖書を実際に読んだことがない人の、一神論に対する無知、それ以上に自分が汎神論優位主義に陥っていることに気づいていないことからくる単なる誤解であるということが、非常に多い。

ちなみに、西洋で論じられる汎神論は、基本的に、一神論を一度踏まえたうえでの、選択的な結果として現れる汎神論になる。つまり、スピノザのように自覚的に汎神論を選択している。

あえてメインストリームをメタ認知する上での自覚的な汎神論か、自らの歴史や文化に規定された結果無自覚にその中にいる汎神論かでは、その意味合いが相当に異なってくるという視点はとても大事だ。

こうした日本における汎神論優位主義というフレームは結果的に、ニューエイジの受容過程において、非常に重要な文化的な誤謬をもたらしているといえる。
あくまでニューエイジは、一神教的な世界をベースとしたうえで、そうした父権的な構造を否定するために生まれたポストモダンの思想である。つまり、ポストモダンは、モダン(近代)を経由して、初めて成立する思想だ。そもそもモダンを経由していないで、そのままポストモダンに進もうとすることは、そもそも、本来は、単なるプレモダン(前近代)への回帰でしかない。
そもそも日本の宗教観は、江戸時代の鎖国政策によって約400年間にわたってヘブル的な一神教の受容が起こらなかったため、本質的な意味では、汎神論から、一神教的な世界へのモダナイゼーションが起きていない。戦前の国家神道もヘブル的な価値観を取り入れたとはいえ、神道である以上大枠は基本的に汎神論である。
つまりそもそも日本の宗教観はモダン化していないからこそ、ポストモダンに行きようがない。その上で、特にアメリカを中心としたポストモダンな思想が流入したことで、メタがベタに受け入れられてしまった。その結果、日本は、そもそもヘブル的な価値観を知らないまま、単なる汎神論優位主義に陥ってしまっているといえる。
具体的に言うと、最初に紹介した、
・全ては私
・私が見るものは全て私の表れ
・外の世界は全て自分の意識が具現化したもの
・自分の心の内側に真実がある
というフレーズを、ニューエイジ書籍で見たときに、「そうそう、これこそが私たちの東洋の文化の神髄だ!」「ついに西洋で発展してきた科学の世界が、東洋の叡智に近づいてきた!」と鼻高々になってしまうということ。
しかし、あくまでこうしたフレームは、西洋ではモダンを経由したのちに訪れるポストモダンであるにも関わらず、自分自身は、単なる汎神論優位主義に陥っていることも知らずに、ベタにこれが素晴らしいと受け取ってしまう。
本当に素晴らしいかどうかは、一神教の構造を新旧両訳聖書をしっかりと読み、その神学構造を知ったうえで、スピノザなどの汎神論の書籍をしっかりと検討したうえで、意識的に選択しなければ、「自分の考え」とはいえず、あくまで文化に規定された「無意識的な選択」にしかすぎない。少なくとも海外のポストモダンは、そうやって東洋の思想を取り入れている。
単純に海外からくる東洋っぽい思想をありがたく受け取って、何の批評も検討もせずに、ベタに逆輸入されたありがたい思想として、受け取るのは単なる文化的、知的怠慢だと思う。
そういう西洋の人々が培ってきたモダンからポストモダンへの移行の努力を、東から西へ、日本人もしないといけないのではないかと思う。少なくとも海外における日本的な汎神論受容は、モダンの枠組みから抜けるために、鈴木大拙などを読んでいるわけで、そういう努力を果たして日本の宗教的世界はやっているかということは、非常に重要な視点ではなかろうか?
こうしたことを宗教界において、真面目にやっていたのが、内村鑑三や新島襄であって、こうした日本の宗教界をモダン化しようとしていた先人たちの道のりを無視して、ありがたくニューエイジを信奉している現在の状態は、決してプレモダンであって、ポストモダンとは言えないのではないだろうか。

また、こうした視点が、なぜ重要かと思う理由は、汎神論的世界観においては、聖書的な信仰義認による集団的救済論と結びつきようがないということ。このルターが再発見した信仰義認による集団的救済論というセオリーから、資本主義の思想や、近現代化が始まった。マックスウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の論理」で論じるように、モダナイゼーションは、明らかにキリスト教のプロテスタンティズムから始まったのだ。
日本がそもそも国際化の波に本格的に巻き込まれるのは、おそらく有史以来初めてのことだ。しかもそのスピードは人類史上かつてないスピードで加速している。その意味で、西洋で体験された宗教改革を経ずに、私たちの思想的なベースは、一気に世界のモダナイズされた宗教観に追い付かなくてはいけなくなってしまっている。ある意味、非常に危機的な状況にあるのだと思う。このあたりが、今のニューエイジの中で見られ始めている混乱(群発するエコーチェンバー型カルトの存在)の背景にある流れであるし、そもそも、1995年に日本に衝撃を与えたオウム事件はその日本的ニューエイジの闇を露呈するものだったといえると思う。しかし、SNSによって広がっているエコーチェンバー型のカルトは、潜在的にそれ以上の危険性をはらんでいるのではないかと思う。
こうした日本においてブログやSNSなどを中心に広がっている群発型カルトの多くの共通する特徴は、無批判に「自分を愛することが大事」というニューエイジ的な教理を受け入れ、結果的に、単なるモラルハザードが行われていくということ。こうした部分が、おそらく今後、経済的な破綻、人間関係の破綻、道徳的な破綻という形で、あるいはそれらが複雑に絡み合った状態で、波及していくのではないかと思う。昨年末に商用利用が解禁されたアメブロなどでは、すでにこうした問題は表面化しつつあるといえる。

今後かなり早い段階で、群発するエコーチェンバー型カルトの問題は、表面化していくと思う。オウム事件のように大変なことになる前に、今の日本のニューエイジが置かれている状況は、とても危険な状況にあることに、気づかなければならない時なのではないかと思う。

少なくともしっかりと、ヘブル的な価値観、一神教的なフレームを知って、こうした日本特有の汎神論優位主義に基づくニューエイジ信仰が陥りやすい、カルト的問題に、個人のレベルでもしっかりと守備を固めていくことはとても大事なことになっていくのだと思う。

少なくとも、キリスト教の三位一体や信仰義認の教理を知ることで、こうしたカルトの問題について、巻き込まれず俯瞰してみることができるし、その悪影響をしっかりと防ぐことができる。長年の歴史の中で、様々な宗教の中にあって揉まれてきたキリスト教世界特有の洗練された神学を、今の混迷する時代だからこそ、一度はしっかりと聖書を読んで学んだほうがいいのではないかと思う。