Jul06

ニューエイジ的文脈における、自分軸/他人軸という欺瞞

日本人のニューエイジ 文化の中では、自分軸/他人軸というフレームで日常的な諸問題の原因を捉える人がよくいるが、そもそもこの背景には、汎神論が存在している。おそらく自分軸が大事という論理は、ようは汎神論的に自分を神に見立てて、世の価値観(他人軸)ではなく、神(自分軸)の価値観で生きるべきだということを言いたいのだろうと思う。つまり、キリスト教世界で言うところの、アウグスティヌス が論じた神の国/地上の国の論理のように、地上の国の論理ではなく、神の国の論理で生きることが大事ということを、言いたいのだと思う。しかし、そもそもこうした神学的構造を理解せずに、本来一神教的な世界観を基盤にして生まれたニューエイジ 的文脈を、日本的汎神論を介して翻訳して伝えようとしているので、こうした文脈は、大きな文化的な誤解として受け取られてしまっている。
しかし残念なことに汎神論はそもそも神=自分(罪深き人間)であり、またそもそも汎神論が、集合的救済論として非常に不完全な要素を持っている(技による救い/グノーシス主義によらなければならない)ので、結果的にどれだけアウグスティヌス が論説し、西洋文明の基礎となった神の国の論理(イエスキリストによって創造主と自分の間にとりなされた軸)で生きようとしても、そもそも汎神論には創造主という絶対的な視点がないため、集合的救済論が成り立ち得ないという根本的な欠点があることに気づいている人は少ない。そして、自分軸/他人軸の論説は、そのままうのみにしてしまうと、結果的に自分が神だと思いあがった傲慢な人間ができあがる。
これはヘブル的な価値観を知らずに、ニューエイジ を受け入れてしまった残念な傾向であると言える。つまり他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそもヘブル的な「神の軸」を持たない限り、汎神論的世界観では罪深き人間の揺れ動く感情の上に成り立つ軸であって、決してこれは軸と言えるような不変のものではなく、いずれにせよ非常に脆弱な土台の上に成り立つ論理であるということ。これが他人軸であろうが、自分軸であろうが、そもそも日本人が精神的な自立を遂げられない大きな原因になっているのではないかと思う。
そもそも主語に自分か他人しかないという構造的な欠陥が、汎神論には常につきまとう。ゆえに、外側で起きることは、全て内側で起きているというグノーシス主義に陥っていくのだと思う。400年クリスチャニティ を拒み続けた上で、この20-30年で一気に国際化の波に飲まれている今、その世界観の抽象性をバージョンアップすることを怠ってきた代償は非常に大きいと思う。
サッカーや野球が、日本の枠組みを出て、海外で選手が活躍する中で、世界的な基準に触れ、スポーツ文化として成熟していったように、日本の精神性も、ちゃんと聖書を通じて、世界の常識であるヘブル主義を学ぶ必要があると思う。世界のリアリティを知らない安易な多神教優位論(しかもこれはすでに集団的救済理論として構造上非常に大きな欠陥をはらんでいる)をまずは脱皮しないといけないのではないかと思う。オウム事件なんかは、まさにその状況をシンボリックに象徴する事件だったと思う。
最近のニューエイジ の傾向は、こうしたヘブル主義的な価値観を持っていないがゆえに、本来は親世代のマモン崇拝に嫌気がさして、ニューエイジ の文脈に入ったのに、結果的に戦後日本が中軸としてきたマモン主義(経済中心主義)を無自覚に回帰しつつあるという不思議というか、非常に愚かな現象が起きている。結局のところ日本人の精神構造の中に戦後のマモン崇拝から抜け出せないまま、スピリチャリティも商業主義の中で偶像崇拝をしているに過ぎないのだと思う。決してこうした精神構造の中で、気持ちが休まる日は永遠に来ないだろうと思う。主を畏れ、悔い改めることは非常に大事。そうでなければマモン主義に基づく日本人特有のニューエイジ に巻き込まれて、自らの身を滅ぼしてしまうだろうと思う。