Jul09

ニューエイジ的終末論の不完全性

ニューエイジ的な終末論というのは、汎神論である以上、非常に不完全なものなんだよな。そもそも終末論は、一神教的な集合的救済論と必ずセットにならないと、単純なカルト的教義に陥る。まずそもそも人格を持った一人の創造主が前提となっていない段階で、信仰義認という枠組みが成り立ちえない。ゆえに、技による救いがベースとなる。個人の霊的な能力やグノーシスによる救いを前提とするため、エリート主義に陥り、集団救済論が成立しない。そして、汎神論であるゆえに、シンクレティズムに基づくため、皆が同じものを信じられるようになるための弁証学が発達しない。ゆえにそれぞれが信じるものがバラバラになり、そもそも同じ神を信じていないためニューエイジの中で分離が起こる。結局のところ、「自分自身」だけが信じられる存在=神であるというところに行きつく。これが行き着く先は、単なる孤立と空中分解である。つまりキリスト教におけるイエスキリストを一つの身体とした信徒のつながりという、教会形成論自体もニューエイジ的の救いの教理にはないわけだ。
2012年アセンション以降、パラレルワールドという言葉で、エコーチェンバー的カルト化が進んでいき、どんどん空中分解していっている。こうした分離が進んでいる姿に、どこにワンネスを感じられるのだろうと不思議に思う。
聖書を学んで、こうした矛盾した構造、不完全な教理から目醒める必要があるのではないかなと思う。聖書の世界でも2000年間の間、「すでに/いまだ」の教理的構造の中で、どの時代にも常に終末論が機能してきたことを知れば、もうちょっと落ち着いて、今の現実をまなざすことができるんじゃないだろうかと思う。この2000年間、どの時代だって「すでに/いまだ」であり続けてきたわけだ。そういう視点を聖書の世界に誠実に学ぶべきなのではないかなと思う。
日本にはこういう聖書的な集合救済論の視点が文化的になかったからこそ、アメリカのカウンターカルチャーとしてのニューエイジ文化を誤解して受け取った。そして、ノストラダムスの大予言という終末論に基づき、安易に汎神論&技による救いという霊的に無防備な状態のまま突き進み、ニューエイジ的言説を振り回して、オウム事件のような悲惨な事件を生み出す社会になってしまったのではないかと思う。