Jul09

弁証学

汎神論、多神教的な日本においては、弁証学は非常に重要な要素になるなと強く思う。
これは江戸時代はもちろんのことながら、近代文明が西洋から入ってきた明治維新以降も、意図的に避けてきた論理だといえる。結局キリスト教の組織神学の1/3は、弁証学でできているからね。
こうした長い歴史の中での誠実な取り組みの中で培われてきた弁証学的なアプローチを知らずに、何となくイメージで独善的ととらえる人は、たぶん単純に聖書を読んだことがない、つまり単なる無知なんだと思う。日本のニューエイジ文化によくある汎神論・多神教優位論という無知ゆえの独善性ということに気づいていない。
こういう無知は本当に怖いもので、竹やり(日本的な汎神論優位論)で戦闘機(SNSによる国際化)と戦うつもりなんだろうか?とも思う。そもそもよくある話で、海外に行った日本人が、宗教の話になって全くついていけないと感じる理由も、こうした海外では長い文化と歴史の中で規定された弁証学の教育を一切受けたことがないから、一瞬で話についていけなくなることが理由。エフェソ信徒への手紙のなかで、「御言葉は剣」というのも、つまるところ弁証学。
SNSによって価値観がかつてないスピードで相対化され、国家という枠組みを超えた自分の神概念、信仰形態を深く考える機会が多い今、世界的な信仰形態のスタンダードであるヘブル主義的価値観を知ることは、本当に大事なことだ。そうでないと、今の時代は精神的な安全を保って生きることは難しいのではないだろうか?とも思う。
日本はキリスト教国家じゃないという人もいるが、そもそもキリスト教は、ユダヤ教徒は何の縁もゆかりもない、汎神論・多神教国家であったローマ世界が救いの教理として受け入れたところからはじまっている。つまり最初から誰も、主からの啓示なしに、一神教的で始まることはないということ。こうした文化的、歴史的な文脈が日本にはないため、いまだ単純な無知による汎神論優位主義が台頭しているといえる。結局のところ、この姿勢では、イエスキリストの十字架による原罪からの解放という福音理解には遠く及ばず、救われることもない。とても悲しいことだ。